モノクロの微笑み
愛知県豊橋市と静岡県湖西市は里山の連峰に隔てられていて、多米峠で越えることができる。峠にはトンネルがあり昔は普通車80円の有料で、1980年前後くらいは暴走族のメッカだった。
豊橋から多米峠を越えた麓は湖西市知波田という小さな街で、当時は二俣線と呼ばれたローカル線の駅がある。
太平洋戦争中に東海道本線が機能しなくなった時に、浜名湖を迂回して抜ける目的があったという。
どちらの峠の登り口にもラブホテルやゲーセン、レストランが連なる、模範的な昭和の日常生活のエッジにある風景だった。
週末の深夜になると、峠から400ccの甲高い排気音が遠吠えのように夜空を流れてきたのが、今では懐かしいくらいだ。
ある晩、湖西市側から多米峠を登っていると、老婆とおほしき歩行者が登って行くのが見えた。紙のショッピングバッグを持ち、身なりはギリ普通の人くらいか。
暗くて判断に迷い一旦追い越した。「日本昔ばなし」に出でくるような鬼婆だったら困る。でも「困った人がいたら何も考えずに助けろ」、そんな死んだ爺ちゃんの教えを無下にするわけにはいかない。
戻って声をかけてみた。向こうもビックリするだろうから、出来るだけフレンドリーに。
「どこまで?」
「豊橋です」…そりゃそうだろ
「乗って。ついでだから送りますよ」
「大丈夫」…大丈夫じゃねえよ
身なりはだいぶ疲れた感じだけど、背筋が真っ直ぐに伸びた何かを感じた。
少々の問答のあと乗ってもらった。婆ちゃんは躾の良い和犬のようにリアシートに座っている。
峠越えの最終バスに乗り遅れたようだ。そういう時は歩く事にしていると。
峠を越え豊橋市の岩田の自宅まで送っていくことにした。大した手間ではない。ちなみに開拓地で見渡す限りの岩がゴロゴロした湿地帯だから「岩田」という地名がついたらしい。
婆ちゃんの家はフェンスで囲まれた敷地が200坪はゆうにありそうな立派な屋敷だった。だが門から家に続く真っ直ぐに登る道沿いは荒れ放題。「注文の多い料理店」なのか。
お茶を飲んで行きなさい、ということで通された部屋も異様な風景だった。
乱雑だが規則的にモノが散在しており、中央の布団で寝たきりの、さらなる老婆がいた。婆ちゃんは70代後半で夫には早くに先立たれ、子供たちは遠くで暮らし、寝たきりの母親を介護しながら二人っきりで暮らしていると。ということは寝たきりの母親は100歳近いはずだ。
時々近所の親切な男友達が買い物の送迎や留守番をしてくれるという。
床に立ててある額のモノクロ写真が気になった。ナース姿のうら若き原節子並みの美人さんが微笑んでいる。
「私の若い頃よ。頑張って働いて子供たちを育てここを買った…」
その後職を聞かれ、バイク屋をやっているというと、今日のお礼に原付を一台買ってくれるという。
礼には及ばないし、そんなことしてもらうわけにはいかない。固辞して帰ったのだが。
それからしばらくして、人の良さそうな老人が僕の店にきてヤマハの傑作スクーターCY50を買ってくれた。盗難に弱いのを除けば、これぞスタンダードという出来の良さで、シンプル軽量そして故障も対処しやすい。そして老人の指示する住所に配達に行った。このあいだの婆ちゃん家のほうだ。
オマイガー
やっぱり婆ちゃんだった…
数年たってその婆ちゃんの男友達の老人がきた。
いやな予感は的中した。
引き取りに行ったヤマハのCY50はピカピカだった。
走行は0キロ。
婆ちゃんはよっぽど嬉しかったらしい。
老人が教えてくれた。
婆ちゃん家はきれいに片付いていた。
婆ちゃんの遺言で老人が手配したらしい。
老人も婆ちゃんに惚れてたんだろ。
そんなことは分かってる。
額の中で微笑む絶世の美人の婆ちゃんを、時々ぼんやりと想い出す。