喪主の長男でございます。
年末年始に相次いで両親が亡くなってしまい、1週間に2回も喪主を務めるというなかなか出来ない経験をする羽目になりました。
年も押し迫った12/30の朝父が亡くなり、明けて1/4の朝、父の葬儀の1時間前に後を追うように母が亡くなりました。
実務関係はもちろん大変でしたが、厄介な事柄を順番に粛々とこなすだけです。
1年以上前から入退院は繰り返してきて、それなりには手はかかったのですが、最後の2カ月は本当に大変でした。父が完全に人格が崩壊してしまい、毎日人格が変わり、毎朝のようにブチ切れた入院先の婦長から電話がかかってきました。
全てを母に依存してきた父は、死を受容できず死を恐れ、何一つコントロールできない病室のモルヒネの霧の中、強いせん妄症状が出てしまったのです。
精神的にかなりしんどく、父の入院していた病院に入ると独特な臭いで吐きそうになりました。
糞尿と消毒液の入り交じったような…要するに死の臭いです。
正直言って父が亡くなった時には安堵しました。
やっと解放されると。
臨終につまりクライマックスに駆け付けた親戚の泣き屋や、遠く離れて暮らす妹が嘆き悲しみ、つまり喩えは悪いのですが盛り上がっているのを、僕は一歩引いて醒めて見ていました。
悪いけど涙の一滴も出やしないよ。
あるいは僕は冷たい人間なのかもしれません。臨床、老人医療、兄弟や親せき、死の尊厳についてずっと考えていました。感じたこと考えことの一端をメモ帳にかなりの量の記録をしました。
一方の母は全く逆でした。
死を受容し準備して、焦らず騒がす求めず、今思えば延命のため死のちょうど1年前に手術をしたことは間違えていたのかもしれません。
母はもう十分だからと手術を拒否してしました。僕もその意に添うべきではないかと考えていましたが、弟が半ば強引に母を説得して手術することになりました。
そのおかげで、去年の春にはかなり元気になり、僕と母の二人で通院がてら桜をみたり、食事をしたりすることができました。
その点では最後のボーナスみたいなもので延命手術も良かったのかもしれません。
ですが最後の2週間は、母も強いせん妄症状が出てしまい、そして随分と苦しませてしまいました。しかし母は最期まで利己的なったり暴力的にはなりませんでした。
きっとひとりの女としての母の意地でしょう。
母の死からは随分と多くのことを学ぶことが出来ました。
最後に棺を閉じるときに、母にチークキスをしてしっかりと顔を見てお別れを告げることができました。
最後に母が口にしたのは父の名と愛犬の名でした。
その理由もすぐに分かりました。父と犬は母が世界の全てなのです。
僕は18の時に家を出るときに、母は新幹線のホームで泣いていました。
何を大げさに、いつでもすぐに戻って来れるのに、と感じたのですが、心の奥底にはそれが引っ掛かっていました。
その理由は母と最期に過ごした日々で理解しました。
新幹線のホームで母は、精神的な意味でもう子離れしたんでしょうね。
この子はもう帰ってこないと。身体は帰って来ても、心は私の手の届かないところへ行ったしまったのだと。
その涙だったんだと。
母の死についてはしっかりとした文章にして書籍化し近親者に報告するべきだと思っていましたが、続く怒涛の日々に気がつけば桜も散り出す始末。
いまもう一回母と桜を見ることはできませんでした。
いつか一連の話をまとめるのが務めであるので、まずは概要を書きました。