Toujours beaucoup

いつまでもたくさん

おにぎり

ご飯を二合炊いてオニギリを5つ作る。白飯だけのオニギリ。そして食べる時にゴマ塩か三島のゆかりをまぶして海苔を巻いて食べる。それをお腹が空いた時に一つづつ食べる。
 
朝、車で仕事場に着く前にいつもハッとする。
 
オニギリ忘れた…
 
でも助手席のコンビニ袋に入ったオニギリを見て安心する。無意識のうちにルーティーンをこなしている。
 
今朝もそうだったんだけど、いつもと違う展開。
 
しまった鞄がない…忘れた…
 
家を出る時か車に乗る時に確認すればいいものを。でもずっと考え事をしているから意識が向かない。
 
パナマでは道端で食用のイグアナが売られているという。やはりワニのように鳥のささ身とか白身魚のようで美味しいらしい。
イグアナ定食。うん多分大丈夫だ、いける。でもフィリピンの有精卵どころか孵化直前の雛を食べるのは無理だ。バロットという。絶対無理。そしてパナマ運河に想いを馳せる。
そんなこと考えているから忘れ物するんだ。
 
幼い時はバスや電車の対面シートで、窓に向かい立て膝でずっと外を眺めているのが夢だった。行儀が悪いと親やまわりの大人に怒られるから出来ない。
 
だからいつも一番前に座る。
バスだと運転手と同じ景色が見える。雨の日は、フロントガラスに雨が当たると輪切りしたネギのように次々と水滴が広がり、それをワイパーが一掃するのをずっと眺めていた。
電車だと運転席の先に伸びる線路をずっと眺めていた。
 
名鉄パノラマカーの先頭の展望席に運良く座れると、前に続く景色とデジタル表示の速度計をずっと眺めていた。
 
もっと速く、もっともっと、飛ばせ。
 
今でも車窓の景色を眺め続けているけど、あの頃とは違うのだろう。街や村の作りや暮らしぶり。田畑や野山の表情。子供の頃の車窓も時々思いだす。
 
高速道路を運転している時もそうだ。音楽はいいがラジオのトーク、ましてや映像は領域を侵されるようでだめた。
 
新東名や新名神、新幹線で単調な景色が続く時は、土木構造物や速度や地理学のことをずっと考え続ける。
 
茂木さんの話で思った。
 
やっぱりおれ頭おかしい
 
茂木健一郎さんのFacebookより
人生の見巧者
夏目漱石の弟子、内田百閒の『阿房列車』が好きで、超ヘビーローテーションで、読んでいる。百閒は岡山出身で、東海道線は眠っていてぱっと起きたらその時の景色がどこかわかる、というほどの鉄道好きである。平山くんとの珍道中が面白い。すばらしい文章。
その『阿房列車』は、車窓の景色ももちろん楽しむのだけれども、同行の平山くんとの酒席ももちろん大事である。それで、百閒先生は、景色について迫真の叙述をなさる時もあるのだけれども、その一方で、平山くんとお銚子をやりとりしている時間もある。
ここに、人生の難しい問題がある。子どもの頃は、電車の窓からずっと景色を見ていたこともあったけれども、大人になるとなかなかそうも行かない。本当はずっと見ていたいけれども、本を読んだり、話したり、眠ったり、大人はいろいろ忙しい。
せっかく旅行しているんだから、車窓の景色を存分に味わいたいという気持ちはもちろんあるけれども、一方で変化がなくて退屈に感じることもある。大人の旅行の実際は、時折(ランダムなタイミングで)外を見て、たまたまいい景色があったら、「ああ、いいね」というのが関の山だろう。
能楽ユネスコの世界無形文化遺産に登録されている日本の、そして人類の至宝であるが、ご存知のようにゆったりとしたテンポで(往時は上演数から計算しても今よりも速かったという説も)、退屈してうとうとしてしまう人が時折おられる。
それでも、ある人に聞いた説だけれども、能楽の見巧者は、うとうとしていても、見どころに来ると、はっと目が醒めて、しっかりと見るものなのだという。列車の旅で、見どころを失わない内田百閒氏も、同じような列車の見巧者だったのかもしれない。
人生が旅だとするならば、その「車窓」の景色は、本来、さまざまな見どころに満ちているはずだけれども、その中には見逃してしまうものもあるだろう。私たちは、ふだんぼんやりしていても、いざという時ははっと見る、人生の見巧者になれるのであろうか。