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いつまでもたくさん

こころの最後の旅

archipelago.mayuhama.com

 

コザという歴史は遺構のように残っているんだ。ちょっとグッときた。

 

1972から1976まで沖縄県那覇市首里の外れの街に住んでいた。首里城の北ゆえの城北小に小2から小6まで通った。近所の高台には新設の城北中学を建設中で工事現場からは艦砲射撃の不発弾がごろごろ出てきた。手榴弾も拾ったことがある。 

世界のどこかで戦争があり、アメリカはベトナム戦争の泥沼。まだまだそんなタフな時代でコザは子供の行く街じゃなかった。基地の米兵のフラストレーションが県民に向かないように存在する街として。

その後イメージチェンジのため沖縄市と名前を変えて、コザという記憶は消え去ったのかと勝手に思っていた。

唯一のコザの記憶は白い壁が並ぶ路地の狭間から、遠くに青い海が見えたことだ。

でもコザに行く用事も動機も無かったはずで、それが本当にコザの記憶だったのかどうかはわからない。

でも基地の中の家に遊びに行った事は確かに覚えている。将校が夫婦で住んでいる基地内の一戸建てで、緑の芝の中の画に描いたようなアメリカンスタイル。

紙の使い捨ての食器を使っていて、それがアメリカの文化なのかと思っていたけど、単に奥さんがぐうたらだったのかもしれない。

河合隼雄先生の「こころの最後の講義」が読みかけだった。

携えて沖縄に行こう。時間切れになる前に。