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Toujours beaucoup

いつまでもたくさん

ケニアの韋駄天

昔ペルーに旅をした時に、ある村の子供達に自分がオリンピアンだということを自慢したら、オリンピック自体を知らず全く尊敬されなかった。なんだ俺も結局先進国という井戸の中で威張ってた蛙だったんだなと思うとなんとも滑稽に思えた時があった。

tamesue.jp

どんなに社会的地位があろうと、それは相対的なものであって絶対的なものではない。当たり前のことだけど。

だから子供たちは絶対的に価値のあるものを崇拝する。圧倒的に足が速い、圧倒的に喧嘩が強い、マジックのように創造ができる。そんなシンプルなものが価値になる。古代では天候を予測できる者が予言者として祈祷師として崇められた。

だから為末さんは足も速いし人間性もあるからすぐ子供たちに敬われるだろう。でもそこがペルーでなくケニアだったら、為末さんレベルの身体能力の少年たちはゴロゴロしているだろうから、為末さんの価値は絶対的にも相対的にも薄れるのかもしれない。

若い頃は外見であったり、スポーツできたり群れの中で喧嘩が強かったりと、やはり相対的な理由でモテる。なので何も持たないものは毎日と未来を呪う。だが持たざる者でも賢明にそして懸命に毎日を生き続けていくと、そういう顔つまりしっかりとした人格も備わってくる。一流のプロアスリートの成長を見ていくと理解しやすいと思う。

そして若い頃のたまたま備えていたモノというものは次第に陳腐化していく。どんなイケメンでも中身が成長しなければただのメッキの剥がれた男になる。若い頃憧れた俳優さんが今では残念な感じになっていることがあるのに似ている。

僕は29で今のワークショップを持った。そしてそれだけに全力を注ぎ努力してきてもう20年になる。ある程度の結果も残せたけど、それは相対的なもので絶対的にはどうだろう。ずい分と失敗もした。でもそれはいい。15年目ぐらいに気がついたのは、明らかに知力や優しさが落ちている、その職業の人格になってバランスの悪い人間になっていた。端的にいうと下品な人間だ。

まわりを見渡してみた。ほとんどの同世代も同じように、役人の人格、先生の人格、営業マンの人格、鉄工場のオヤジの人格になっている。顔を見れば職業が大体予測できるくらいに。ある同級生の開業医は病院内の裸の王様だ。

選手としてバイクレースに出ていた頃、観客を見ていて思った。いかにもバイク屋のオヤジの風貌のおっさんが、お客さん(信者)を引き連れて観戦に来ている。それなりに新車販売実績のあるとこなんか、メーカー販社に大名行列扱いされ我が物顔だ。はっきり言ってみっともない。

ああはなりたくないもんだ、若い頃そう思った。でも独立してしばらく経つと自分も同じような品のない人間になっていた。ここは敢えて下品とはいうまい。社会には貢献しているのだから。

みんな相対的な価値は得ている。金、モノ、地位。でも絶対的にはどうなんだ?ひとりの男として、子供の前や妻や恋人の前に立ったときに価値はあるのか。もちろんそれは裸の王様のようにお金だけだと、割り切るのもいい。

今モテない人。簡単にはモテるようになれない。相対的な社会的価値を上げていけば、つまりお金があればモテるようになる。でもその価値が消失すれば終わり。絶対的な価値を得ていく、それは真理を見つめるための知力であったり、あるいは堪える力、本当の強さつまり優しさを身に着けて生きたい。

決めたらやる
弱音をはかない
言い訳はしない
愚痴は言わない


村上春樹

これ大事だと思う。結構大変。

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