Toujours beaucoup

いつまでもたくさん

19970815

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僕の母方の亡き広島の祖父は盆前に危篤になって、借り物のクラウンでぶっ飛ばして愛知から広島まで行った。魔のカーブが続く関ヶ原オーバーランするとこだった。

まだ名神と山陽が繋がっていない石器時代の話。
 
夕暮れに原爆ドームの近くを通って宇品の近くの病院に着いて、アスファルトがまだ熱を帯びていたのをよく覚えている。
中国大陸に戦争に行って日本は負けて、ソビエトで労役に就いた後に帰ってきた。ガタイが良くて一刻で、曲がった事が大嫌いで全てぶっ飛ばしてきた。
 
昔の電話交換機みたいに管やモニターが繋がったじいちゃんは、もう肉体は死んでいるのはすぐに分かった。
気合と根性だけで生きていたのさ。
もう全て終わるという幕引きに直面して号泣した。自分のヘタレ加減を恥じた。
広島市民球場に勝負(ナイター)を観に行って(修羅の国の広島戦は試合じゃなくて勝負だった)、真っ暗な中を難民のようにみんなゾロゾロ歩いて帰った。
じいちゃんはそんな時でも無言でどんどん歩いて行く。チビの僕は懸命に背中を追いかけた。
 
そのままお盆に葬式になった。
近所にじいちゃんの舎弟が住んでいて(一緒に戦争にも行って帰ってきた)じいちゃんには世話になったと、鬱陶しいくらいお節介を焼いてくれた。
その時はじめて戦争の話を聞いた。
じいちゃんは国のため家族のために戦争に行って、信念に反することも山ほどあったけどぐっと我慢していたらしい。
それもあってじいちゃんは、一度も戦争の話はしなかったんだとわかった。
じいちゃんは車の修理など機械的スキルがあってソビエト軍に重宝がられていた。舎弟はそのオマケで助かった。
何も出来ない奴は糞も出なくなるまで働かされて、馬鹿正直だったり弱かったりする順番に消えて行ったという。
これが広島の母方。
 
豊橋の父方の祖父は同様にガタイが良くて、一刻というより粗暴な人格だった。
 
バイクに乗り出した僕に対してTONEの工具セットを送ってくれたのが広島の祖父。
ひと言「骨折るぞ」と言っただけの豊橋の祖父。
 
どちらも間違えていないし間違えてもいる。
 
父方のルーツは苗字からわかるように三重から吉田へ流れてきた開拓民だ。
 
母方のルーツも苗字からわかるように村上水軍の末裔。
 
豊橋の祖父はなぜが兵隊に取られず、戦後はスカベンジャーや紙芝居をしながら生計を立てていたという。そして八百屋で成功して、現在は叔父が跡を継いでいる。
自分は商売を始めてハッキリと分かったけど、その八百屋商売のスタイルは嫌いだ。でも成功して財を築いた。
 
父方の祖父が死ぬ数年前に、祖母が生き残った子供たちを集めて(馬鹿正直な兄弟だけが死んだ)言った。
 
「じいちゃんと別れたい」
 
八百屋を継いだ次男は、映画『麻雀放浪記』で鹿賀丈史チョンボに激怒して立ち上がったシーンのように激高した。
 
「何なんだよ!今さら!」
 
生い先少ない最後の唯一の祖母の我儘なのに、気持ちを汲まない叔父叔母と父(長男)を見て、僕はどうしていいか分からなかった。
 
人生は白黒や理想だけでは、全くもって上手く行かないのはよく分かっている。
それによって自分の子供たちに、経済的には不自由な思いをさせたのはすまないとも思う。
 
ちなみに母方の広島の祖母は、死ぬまで広島人らしくまわりに要らぬお節介を焼きまくり、じいちゃんの後を追うように亡くなった。
 
父方の祖母は姥捨病院でひっそりと亡くなった。
 
お前は何も出来ないし何もしてないじゃないか!と身内からの批評があるかと思いますが、これが結果でございます。
 
黙祷
 
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