Toujours beaucoup

いつまでもたくさん

What a boy!

トヨタの高級セダンから、3000万くらいはかかってそうな立派な腹をした中年の男が下りてきた。格闘家風のショートのソフトモヒカンに、スーツは吊るしだろうけど偉丈夫な体系もあってなかなか板についている。だけどデカ靴のつま先がボロボロなのが全てを台無しにしている。

「靴が汚いやつはアソコも汚い」と友人の祖母も言っていた。

助手席から派手で煙草臭そうな若い女が下りてきて男の腕に絡みつく。同伴デートだろうか。

これもひとつの幸せのスタイルである。

 

人生に解なんてものはなく、幸せとは近似解を求めるようなものである。

この真理に気がつくことができれば、全てを受け容れることができるのかもしれない。

 

そもそも、私は最近「幸せになる」「充実した日々を送る」「人生を楽しむ」、そういう目標設定自体が間違っているのでは? と思ってきてしまいました。間違っているというといい過ぎですが、そこを最終的な目標にすべきかどうか再考してみてもいいのでは、とは思います。幸せになりたいと思っている人、それはなぜですか? 充実した日々を送りたいと思っている人、なぜそこに高い価値を見出すのですか? 楽しくなくても、別にいいんじゃないですか? 禅問答のようですが、まさしく人生なんて禅問答ですよ。不幸な日々を送っていても、毎日寝て過ごしていても、それであなたの目標が達成できるなら私は何の問題もないと思います。

 

自己肯定感を高めたかったらイタリアに行けばいいじゃない - チェコ好きの日記

 

 

自己肯定感という言葉はあまり意識したことはなかった。

記事によると、自己肯定感は便利な道具のような、つまりルンバのようなものだと思えばいいと。たしかに日本人に自己肯定感が低い人が多いけどそれはそれでしかたない。そんな中で自己肯定感の高い珍しい人であっても、別にどうってことはなくルンバが当たったと思えばいいのだと。

自己肯定感という言葉がイメージできないので、なんだかおかしな生き物のようなんだけど、でもそれがルンバなんだ。飼い猫や飼い犬が、ルンバをおかしな生き物と認識するようなもんなんだ。

 

気候風土や歴史文化が国民性をつくる。

もちろん国というくくりの中でも気質の差は大きく、沖縄人が雪に閉ざされた東北人に「なんくるないさー」なんて言ったら、「ふざけんな、そんなこと言ってたら凍死するわ」とぶん殴られるかもしれない。イタリアでも南北で気質がかなり異なるのは気候風土や隣接国からくるのだろう。だいたいイタリアが南部だけだったらフィリピンみたいになっちゃう。

同じような縁故社会のフィリピン人とイタリア人の、家族主義と相互扶助精神や明るい気質は、宗教的なものもあり似ているところがあるけど、決定的に違うのは気候風土と隣接国からくるもの。島国はどうしても均質で内向きな気質や文化になり、ガラパゴス的な進化をし外敵に対する耐性が弱い。これは日本も同じだ。

トルコ人が人がいい人なのか悪い人なのか結構謎なところも、ヨーロッパとアジアの中間にある立地からくるものなのかもしれない。

韓国人は(あこがれの北朝鮮は知らない)さらなる家族主義で親が絶対であり、大陸と島国を橋渡すような半島というイタリアとは異なる地理的条件で、あまりいい目を見てこなかった歴史からくる閉塞感もあるのか、ネガティブになりやすいところがある。自死も多く、このあたりは日本人に似ている面もある。

 

無職でも平気なイタリア人と、失業して絶望する日本人のマインドの差――ヤマザキマリ×堀江貴文[3]|ブラック労働で辛い日本人と無職でお気楽なイタリア人|堀江貴文|cakes(ケイクス)

 

チェコ好きさんの記事の中のリンク先によると、あの無職でも平気なイタリア人でさえ最近は絶望すると、「この世にはお金よりも大事なものがある」という大前提を忘れて自死するようなこともあるという。

 

「ニホンジン ナンデ ジサツ スル? バカジャナイ? フィリピンジン ニゲル がははははは」

 

www.motogp.com

 

バイクの世界選手権のエントリークラスであるMoto3でマレーシアンが優勝した。日本人以外の有色人種が世界選手権で勝ったのは初めてのことである。

しかも最終ラップの最終コーナーで、2位争いをしていたもうひとりのマレーシアンが、マレーシアン1-2を決めるための乾坤一擲のダイブをした。そして飛んだ。だがそいつはバイクを押してフイニッシュラインを越え崩れ落ちた。足取りからしてたぶん足首を骨折している。

荒れた気候のレースウィークで、悪条件では人間勝負となり、残酷な神のご加護も重要となる。そのマレーシアンたちからは「絶対に勝ってやる」という強い気迫が画面からビシビシ伝わってきた。今の日本人には決定的に不足している要素だ。

世界選手権は世界を転戦するものの、基本的にはコロッセロの戦いを汲むヨーロッパ選手権でもあり、有色人種は欧州人の何倍も頑張らなければ勝つことはできない。日本人にはまだ世界一のバイク生産国であるという有利な条件と、金と良き意味での特攻精神があった。

東南アジアの国々は日本に比べると圧倒的に不利で、これは中、台、韓も同じだ。

でも去年の世界選手権のマレーシアラウンドを見てわかった。白熱したレースになるとレーストラックの大歓声が画面にも伝わってくる。東南アジアラウンドは20年前の黎明期にはチケットが買えないために観客もまばらだったが、近年では相対的には裕福になり2輪メーカも普及に力を入れているのもあり、溢れんばかりの観衆が詰めよせる。

年間タイトルを争っているライダーと、仇役が激しく接触しながらやりあった.。記録では18回の抜き差しがあり、レートラックは興奮の坩堝となった。

そこで気が付いた。

ヨーロッパラウンドとは歓声の質が違うのである。ヨーロッパラウンドでは日本と同様に選手の名前を連呼しながら鼓舞する声援を送ったり、激しい国になるとサッカーのように爆竹で炎上したりする。でもフーリガンはいない。

でも東南アジアの、地獄の釜をひっくり返したような阿鼻叫喚の叫びは、言葉は分からないけど明らかにNGワードを連呼しているのが感じられた。血走った闘鶏場の血に飢えた観客と同じで、コロッセオとは異質なものではないかと感じた。

もちろんヨーロッパでも、ライダーたちはコロッセオで戦うグラディエーターと同じ真剣勝負を要求される。だが東南アジアではライダーたちは闘鶏と同じなのだ。フィリピンの6階級制覇の偉大なチャンピオン、パッキャオのことを思い出した。唯一日本人でパッキャオと戦ったことのあるボクサーが語った。ボクシングをやってきて初めて殺されると思ったと。パッキャオ自身も「俺は闘鶏だ」と称していた。

 

Fighter - Toujours beaucoup

 

 

自己肯定感なんてルンバでもなく、新人のグチみたいなものかもしれない。つまり意味なんかない。

初優勝したマレーシアンの魂の走りを見ながら自己肯定感を考えてみた。