Toujours beaucoup

いつまでもたくさん

自分の頭で考えて、自分の足で走ることができる教育

前回のポストで素敵なコメントをいただき、返信を書いていたら長くなりすぎたのでここで。

自分の頭で考えて、自分の足で走らなきゃ - Toujours beaucoup

 

人は環境に大きく影響される弱いものだけど、かといって環境のせいばかりにしていては、どこにも行けない。

子供のころの壁は、ピーマンだったりトマトだっり、どうしようもない親(家族)であったり、教師(学校)であったりする。でも自分自身で乗り越えていくしかない。

たとえばリコさんの、異国に来た日本人留学生を安易に助けない(その人のためにならない)、という話は同感。そしてリコさんは色んな壁を乗り越えてきた。

そうさ、やさしくないのさ - fork and cream chair

FridayussaoさんはずっとDID(この表現でいいのかな)という長いマラソンを走っている。

マラソンランナー円谷幸吉さんの死

日本人の死生観や責任感に起因する美意識の悪いところが出てしまった。

つまりアスリートとしては精神が弱かった、ということになる。

でも美しい自尊心による崇高な死としたほうが、ご本人も浮かばれるのかもしれないが、それでいいのか。

最近の世界選手権のライダーは、物心つかないころから冷酷なマシンのように鍛えられているからあまりないけど、昔は自分の足で走ってきたライダーばかりだった。イタリア人とかスペイン人などラテン系ライダーはやはりグラデュエーターで、負けて国に帰ろうもんなら何されるか分からなかった。でも歓喜の大観衆の声援は、彼らを全能の戦士にし神がかった走りを可能にした。代償として負けに対する恐怖心も大きく、崩れ去っていく時の脆さもまた切ないものだった。

日本人ライダーはやはり、ど根性の特攻精神で、それが上手く機能する時はいいけど、負けが混んでくるともう苦しいだけの戦いになる。引き際の見極めができない。

円谷幸吉さんの遺書はまるで特攻隊員の遺書のようだ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86%E8%B0%B7%E5%B9%B8%E5%90%89

 

武家に生まれて武士として生きねばならなかった沢山の人生

 武家に生まれて武士として生きねばならなかった沢山の人生を読みます。明治維新の混乱ではそれまでの置かれた状況に甘んじて尊大になり、結果自分を見失うことになった武士が多く出ました。自分の足で立つことは当時でも十分出来たと証明した男たちの記録はとてもかっこいい。生き永らえる手段を越えてヒトとしてのセックスアピールを感じます。インディペンデントであることは魅力的な人の条件のひとつだと思いました。しかしながらそこが組織内であっても自分の足で立ち在野として進む人もいると思います。快楽と易きに流れる自分を制するひたむきな姿勢。やっぱ駅伝なんだよな〜。なんつって。

僕らの世代はまだ祖父が軍人だったとか軍人家系だったという人も少なくない。やはり何かと気合の入ったど根性人生を生きて来ていて、それを祖先の亡霊のように自分たちの子にも要求している。教員とか役人家系も似ているのかな。

でも昔は家族や結婚のあり方も異なり、家のためひいては富国のため、という考え方だった。だから子供もたくさん生んで篩いにかけるようなところがあった。生まれ順もそうだけど序列に応じて、優秀なものから家督を継ぐもの、上級学校にいくもの、軍隊にいくもの、家族労働となるもの、口減らしとして丁稚や果ては唐行きさんに出されるもの。

だから少子化した現在、ひとりか二人しかいない子供に理想を押し付けるのは、気をつけないといけない。やはりその子の適正というものがあり、良かれと思い子を厳しく導いたものが上手くいかないことがある。

インターネットでほとんど全ての情報が得られ、ドローンが空を飛び、3Dデータと3Dプリンタで物質の転送までできる時代になっても、人間のポテンシャルは今も昔も大差ない。

むしろ今は知力や胆力の総量は低下しているのかもしれない。

古典学問や文学を読むと、その圧倒的な言葉の洪水に溺れてしまう。自分の無知無力さを思い知らされる。あらゆる語彙を使いた緻密かつ丁寧な言葉を用いた、古の人々の情熱を感じる。

自分の頭で考えて、自分の足で走ることの出来る子に育てるのが親の責務なのかな。

来年の箱根駅伝までごきげんよう