Toujours beaucoup

いつまでもたくさん


外出している時に主人が言ったひとことは、かなり核心をついていて笑った。
「僕の両親には、Annaは元気が良すぎるから入院していると伝えてるよ」
だって。

普通の奥さん。 - Anna’s blog

 

ご主人の言葉。
なんかグッときた。同時に自分の足りないところが見えた気がして刺さった。ありがたい。
 
はてなブログをはじめてずいぶんになる。
始めたきっかけは、どんどん劣化する感性の崩壊を少しでも食い止めるため。
 
40を越えてくると、おおよその人はその職業の人格になってくる。医者、先生、公務員の裸の王様化。商社マンの越後屋化。経営者のマッチョなボス猿化。主婦の大阪のオカン化。
 
Like a Rolling Stones
僕は29でワークショップを持ち全力で転がり続けてきた。
その中で感じた。社会的には成功しているが偏狭でバランスの悪い人格の人って何なんだろう。若いころは上の人々、40ぐらいからは同年代に対してそう感じてきた。自信がつくに伴い、全能感が出てきてきたりするんだろうけど、所詮は猿山のボス猿。相対的なもので、絶対的な人としての価値はゴミだったりする。
 
そして気がつくと自分もそうなりかけていた。仕事だけに身を捧げてきた代償で、知力のない下品な人間になっていた。
 
気がついたのは仕事で、ある程度身の丈を越えた目標を達成してしまった時のこと。でもその代償はあまりにも大きかった。同時に、もともと構造的に衰退していた業界に、トドメを刺すようなリーマンショックがあった。どん底の底は抜けるんだ、ということを知った。もう自分の仕事がバカバカしくなって、沈みつつある船の浸水をとめるのをやめようと思った。
 
中途採用で公務員、公益企業、大メーカーを受けた。全部最後に落ちた。落とすんなら最初に蹴ってくれればスッキリする。でも最後の最後に落とされるのかなり精神的ダメージが大きい。
大メーカーの事業部長さんは最後の面接で言った。
「別に問題は無い。君みたいな経験者はほしい。もうYESかNOだけなんだけどね。」
でも未来をお祝いする丁寧な手紙が届いた。でもそれで分かった。そういうことなんだ。
残された道はこの道しかない。
 
そこで転がり続けるのをやめた。苔が生えてもいいじゃないか。
ワークショップは必要最低限の規模に縮小した。失われた時を取り返すように、感性を磨き知見を高め自分の頭で考える。
同時に数千万の負債に精神は悲鳴をあげた。玉砕を意味する万歳アタックをすれば楽になる。客観的には万歳してしまったほうが良かっただろう。
何を食べても味がしなかった。朝目覚めたときの苦悩は体を硬直させた。毎朝叫びながら這い出ていた。三時までに100万、もう万策つきた時はひたすら冬の山の中を彷徨い歩いた。必死に歩くことはひと時の間逃避する事ができた。命を獲られる訳ではない、逃げるな、腹を据えるしかない。
 
そんなさすらいの中、ブログで少しずつ文章を書き出した。文章を書くのは楽しい作業である。でも転がり続けてきた結果、予想以上に知力と感性は退化していた。インターネットで文章を書くという事は、人にマスターベーションを見せるような面もある。だったら観客のイマジネーションを駆り立てるような文章を書こうじゃないか。
 
40を越えて再読した文豪たちの文章には新たな感慨を深め圧倒された。若いころの物差しとは違う。精確に読み取ることができる。名画もそうだ。
 
そして最近は違った目線が出来てきた。インターネットで出会う文章、つまり出会う人々は実に苦しんでいる人が多いということ。いやそうではなくて、実社会では気がつかない、目につかないだけだった、ということにも気がついた。
 
「あなたに私の気持ちがわかるわけがない!」
 
DVでトラウマを抱える女性に言われたのはショックだった。そう、わかるわけないのだ。わかったような口を利くべきではないのだ。そばに居るだけでいいんだ。
 
覚醒
 何かのきっかけでこの方のブログに出会った。頭脳明晰で、自己とも誠実に向き合っているのが文章から感じられる。でもどこかバランスの悪さを感じる。いろいろを読み進めてみると、心の苦悩の理由がわかってきた。

エレカシのライブが今月名古屋市であるようだ。チケットはまだあるのだろうか。しかしチケットが残っているとしても行くのは無理。わたしは精神病を患っており大きなホールで一時間強続く大音響に脆弱な脳みそが耐えられるはずが無い。そして生きて歌う宮本浩次はあまりにも刺激が強過ぎる。

 失神して迷惑をかけるだろう。その後の数日は微熱で寝込んで家族も閉口するだろう。分かり切っていること、予期できるストレスは回避するのが大人である。

 

 

刺激が強すぎて失神したり、数日間寝込んでしまうだろう、と。

誰しもこの傾向はあるが、それが強すぎるようだが、そんな自己に誠実に向き合っている。

 

18のころから競技としてレーストラックでバイクに乗るようになった。その行為は強い興奮状態となり、しばらく体が浮遊するような覚醒状態が続く。肉体はボロボロに疲労しているのに、精神は覚醒し眠ることが出来なくなる。

覚せい剤を打って日本刀を振り回している輩は、強い覚醒状態にあり痛みを感じないから、絶対に止めてはいけない。

 

僕は今では逆に味覚過敏というかかなり繊細になった。あの苦しい時期のように何を食べても味がしないなんてことはなくなった。

知り合いのうどん屋さんに定期的に麺の試食に呼ばれる。僕は的確な言葉で具体的評価はできないから、感じたままを自分の言葉で表現する。うどん屋さんは自分の評価が正しいかどうか、僕の言葉で答え合わせするそうだ。ある日普通に食べにいったら麺の味と食感が変わったのがわかった。もう出汁のバランスが崩れ最悪である。食べ終わったころに、評価を聞かれたので正直に答えたら、やっぱりか!と。それは仕入先にやられたようであった。

不味いもの、特に不味い魚が食べられなくなった。鮮度はともかく活かす殺すも管理と、調理しだい。スーパーの刺身はほとんどがおいしく食べられない。生牡蠣は際たる例で、スーパーも含め街場で食べられる生牡蠣は殺菌処理で旨味が抜けてしまっている。薬品のような味を感じるくらいだ。

ラーメンもそう。ラーメンブームでいっちょまえの能書きで高いラーメンが増えた。

味が濃いのは大丈夫だし好きだ。でもあきらかに塩っ辛いだけ。行き過ぎた魚介出汁。臭いだけの豚骨。

一方、あっさり白湯鶏塩ラーメンは旨味がないかわりに、シンクの味がするとか。

どん兵衛のほうがどんだけましか、なんてことが結構ある。

 

さてわたしはラーメンを滅多に食べない。理由は明快だ。ラーメンは熱い。熱すぎる食べ物は食べられない。わたしは犬派ではあるが猫舌だ。

 

そしてもうひとつの理由はラーメンを美味しいと思ったことがとても少ない。味覚過敏と言えば聞こえが良いが熱いのに怯んでしまい食べ始めが遅れるという不手際も手伝って半分ぐらいのところでモタモタと麺が伸びてしまっている。

 

そして美味しいと評判のラーメンのスープは旨味が多過ぎるように感じている。濃すぎるのだ。美味しいなと思うのはやはり半分ぐらいまで。濃い味付けに飽きてしまいこの辺りで白飯入れたいな、とかアレンジしたくなるのは育ちが悪いせいなのか。そもそも胃が小さいのもハンデである。

 

わたしには目標がある。わたしの中ではラーメンをガツガツと食べられるように成ればエレカシのライブへ行けるのではないかという全く連合弛緩極まりない目標がある。

 

ライブへ行ける様になってホールで意識が遠ざかるころわたしはこんな風に自分を励ますんだよね。ラーメンなんだ、エレカシはとびきり美味しいラーメンなんだ。今しか食べられないぞ。美味しいラーメン屋に行列が出来るのは当たり前だぞ。みんなが集まるのは当たり前だぞ。頑張れ人生辛抱だ。

 

立場はかわりメカニックとしてライダーを送り出す時は「頑張って」とは言わない。なぜならもう死ぬほど頑張っているからだ。もしくは「頑張って」と言われることで満足してしまう。だからいつもこう声をかける。

 

気をつけて