Toujours beaucoup

いつまでもたくさん

原点

 「あんたが工具欲しいゆうとるけん、じいちゃん宇品まで買いにいきよったんよ。届いたら話があるけん、じいちゃんに電話しんしゃいよ」

 おせっかいでおしゃべりでせっかちな典型的広島人のばあちゃんがこう言ってきた。

 

 ヤマハRD50の中古車を買った時のことだ。店頭には2台のRDが並んでいて、スポークホイールの方は走行は少ないけど少々程度が悪い。もう一台は綺麗だしキャストホイールでパッと見はこっちの方がいい。でも走行は倍以上走ってる。プライスはついていなくて口頭で聞いてみた。

 「こっちは(スポーク)の方は4万5千、こっち(キャスト)は4万。」

 おまえ買う気あんのかよ?そんな顔で無愛想に教えてくれた。ちなみにその1年ほど前に買ったフェルナンデスのレスポールの展示品(傷あり)が4万5千で買うときには4万に負けてくれた。バイクとギターの価格の相関関係は今はどうなんだろ。当時ヤマハの最高級グレードのSGが13万だった気がする。

 

 育ちの違う双子の兄弟のようなRD。どちらを買うか迷ったけれど、どっちにしろ直ぐは買えないからお金が用意できるまでは、ひたすらどちらも売れないことを祈った。そしてお金が用意できたころにはキャストのRD50SPを買うことに決めていた。

意を決して買いに行きキャストの方を指名するとこっちは5万5千だという。話が違う。それについては交渉したけど、きっとどちらかの勘違いだからそれは仕方ない。だが問題は自賠責保険やらなんやらで総額費用は忘れたけど、お金がカツカツだったからそれじゃ買えない。何回も通っていたので「マジ欲しい!」気持ちが伝わっていたのか、絶望的(おそらく)な顔していたせいで気の毒に思ったのか、まけてくれて商談成立となり○日の4時に店頭に引き取りに行くことになった。

 

 納車当日ヘルメットを持って電車で取りに行った。何回かバイクには乗ったことはあったが、混雑した交通の中では乗ったことがない。そのバイク屋は駅の反対側で結構な交通の難所を越えないと家に帰れない。入念にルートをシュミレーションして臨んだ。幸い無事に難所はクリアし、近所の競輪場の駐車場で猛特訓をはじめて、ステップ摺れるようになったと思ったら転んだ。見事なスリップダウン

 

 その後間もなくして広島の祖父からの工具が届いた。鉄製の長方形のケースに入った、メガネレンチのセットと1/2のボックスレンチセット。  「TONE TOOL」 トネツールというしっかりとした日本製のブランドなのだが、当時はそんなこと知る由もなくトーンツールなんて読んでいた。祖父に電話するとネジをなめないようにと工具への力の入れた方を教えてくれた。10mm(2面幅で)までは手首の力。14mmまでは肘から先の力。それ以上は腕の力で。メガネレンチがロングなのと、1/2だから力をかけすぎるのを気にしたんだと思う。

 

 祖父は戦争で大陸に行っていて戦後は赤い国で抑留されていたが、専売公社(現JT)の工場勤務で物造りの素養もあり、自動車の修理とかもできたので厚遇されて無事に日本に帰ってきた。「芸は身を助く」そのものである。

 

 そして祖父は後先考えず漁船買ったり、出たばっかのマツダキャロル(初代)を買って箱根を越えて東京まで行っちゃったり、意義ある仕事のボイコットをして2週間コタツから出なかったりと、そんな一刻(我々の用語でいうダメ人間)な人間でばあちゃんは随分と苦労したらしい。ちなみにその漁船は「夕凪丸」といって、狭い水路を通って入るマツダの近くの丹那港においてあった。そういうわけで自分は中学の時には何故か漁船の操縦もマスターしていた(笑)家は黄金山の崖下にあり、そのおかげか原爆では窓ガラスが全部割れた程度で済んだらしい。

 

 祖父は寡黙な性格で何かを教えること以外はあまり話を聞いた記憶がない。戦争の話は全く聞いた事がない。祖父の戦争の話は死後に近所の弟分に聞いた事があるだけだ。体格のいい男気のある性格の祖父だった。

 

 自分の性分とか物造りの素養は祖父の劣化コピーかなと思う。祖父は晩年は200Vが引いてある自作の工作室に篭って、ステンレスを加工して海の道具や、デジタル置時計をひたすら作っていた。おかげで親族関係は各部屋に祖父の手作りデジタル置き時計があった。ただひとつだけ祖父に勝てることがある。それは溶接。祖父は溶接だけはアカンかった。そういう人って時々いる。この業界(バイク造り)の巨匠でもそういう人がいる。

 

 ヤマハRDはひたすら磨き、素性が良かっただけにピカピカになった。ただ過走行のためピッカピカのボロボロ、すなわち機能面がダメで不具合の連続だった。購入店の整備もまあ今思えば何もしてなかったんだな。とにかく力がない。山を登るとどんどんスピードが落ちてきて最終的には2速まで落ちてしまう。そして高負荷走行を続けるといきなりエンストしてしまう。しばらくすると何事も無かったかのように走るからそのまま乗っていたが、それはピストンの抱きつき(軽度の焼きつき)で冷えると解消していただけ。このあたりはヤマハの2ストの良さでゾンビのように何回でも復活する。だが挙句の果てにプラグの電極を焼損してストップしてしまった。過走行によるカーボンによるマフラーの閉塞、排気ポートとピストンにもカーボンの堆積で、パワーダウン、プレイグニッションの要因がテンコ盛りで、おまけに熱価の低いプラグが付いていた。

 

 その後本で勉強しながら祖父に買ってもらった工具でエンジンを分解して、傷だらけのシリンダをボーリングしてオーバーサイズピストンに交換し、ヤスリでポートを加工して、アルミのフィンもピカピカに磨き、マフラーのカーボンも手を尽くして懸命に落とした。その作業に対する成果はビッグボーナスでウイリーもできるし、峠もガンガン登れるようになった。もう有頂天である。シンプルな構造でヤマハらしい素性のいい空冷2ストエンジンのおかげだ。

 

 暴力的ともいえるパンチと癖のある戒律で有名な二郎ラーメン。「二郎はラーメンではなく二郎という食べ物である」という名言があるとおり、ハーレーはバイクではなくハーレーという乗り物である。個人的にはヤマハにもそういうブランドになって欲しかったという思いはある。

「俺のヤマハ」「僕のヤマハ」「私のヤマハ

 

ある意味母なるヤマハへと亡き広島の祖父。それがある意味今の自分の原点だ。