『トロッコ』 芥川龍之介
三人は又トロッコへ乗った。車は海を右にしながら、雑木の枝の下を走って行った。しかし良平はさっきのように、面白い気もちにはなれなかった。「もう帰ってくれれば
好 い」――彼はそうも念じて見た。が、行く所まで行きつかなければ、トロッコも彼等も帰れない事は、勿論 彼にもわかり切っていた。
無限の袋小路のような毎日の繰り返し。時々そんな良平のような気分になる。
「この先行き止まり。無用のもの入るべからず。」
警告を無視したものには報いがある。
去年、岐阜ハーフマラソンで長良川沿いを走りながら何回も見上げると、いつも金華山の上の岐阜城がみえた。
そう、物心ついた頃は岐阜に住んでいた。
そのあと十日余りたってから、良平は又たった一人、昼過ぎの工事場に佇みながら、トロッコの来るのを眺めていた。すると土を積んだトロッコの
外 に、枕木 を積んだトロッコが一輛 、これは本線になる筈 の、太い線路を登って来た。このトロッコを押しているのは、二人とも若い男だった。良平は彼等を見た時から、何だか親しみ易 いような気がした。「この人たちならば叱 られない」――彼はそう思いながら、トロッコの側 へ駈 けて行った。
「おじさん。押してやろうか?」
その中の一人、――縞 のシャツを着ている男は、俯向 きにトロッコを押したまま、思った通り快い返事をした。
「おお、押してくよう」
良平は二人の間にはいると、力一杯押し始めた。
「われは中中 力があるな」
他 の一人、――耳に巻煙草 を挟 んだ男も、こう良平を褒 めてくれた。
その内に線路の勾配は、だんだん楽になり始めた。「もう押さなくとも好 い」――良平は今にも云われるかと内心気がかりでならなかった。が、若い二人の土工は、前よりも腰を起したぎり、黙黙と車を押し続けていた。良平はとうとうこらえ切れずに、怯 ず怯 ずこんな事を尋ねて見た。
「何時 までも押していて好 い?」
「好いとも」
二人は同時に返事をした。良平は「優しい人たちだ」と思った。
五六町余り押し続けたら、線路はもう一度急勾配になった。其処には両側の蜜柑畑 に、黄色い実がいくつも日を受けている。
「登り路 の方が好い、何時 までも押させてくれるから」――良平はそんな事を考えながら、全身でトロッコを押すようにした。
蜜柑畑の間を登りつめると、急に線路は下 りになった。縞のシャツを着ている男は、良平に「やい、乗れ」と云った。良平は直 に飛び乗った。トロッコは三人が乗り移ると同時に、蜜柑畑のを 煽 りながら、ひた辷 りに線路を走り出した。「押すよりも乗る方がずっと好い」――良平は羽織に風を孕 ませながら、当り前の事を考えた。「行きに押す所が多ければ、帰りに又乗る所が多い」――そうもまた考えたりした。
竹藪 のある所へ来ると、トロッコは静かに走るのを止 めた。三人は又前のように、重いトロッコを押し始めた。竹藪は何時か雑木林になった。爪先 上りの所所 には、赤錆 の線路も見えない程、落葉のたまっている場所もあった。その路をやっと登り切ったら、今度は高い崖 の向うに、広広と薄ら寒い海が開けた。と同時に良平の頭には、余り遠く来過ぎた事が、急にはっきりと感じられた。
三人は又トロッコへ乗った。車は海を右にしながら、雑木の枝の下を走って行った。しかし良平はさっきのように、面白い気もちにはなれなかった。「もう帰ってくれれば好 い」――彼はそうも念じて見た。が、行く所まで行きつかなければ、トロッコも彼等も帰れない事は、勿論 彼にもわかり切っていた。
その次に車の止まったのは、切崩 した山を背負っている、藁屋根の茶店の前だった。二人の土工はその店へはいると、乳呑児 をおぶった上 さんを相手に、悠悠 と茶などを飲み始めた。良平は独 りいらいらしながら、トロッコのまわりをまわって見た。トロッコには頑丈 な車台の板に、跳 ねかえった泥が乾 いていた。
少時 の後 茶店を出て来しなに、巻煙草を耳に挟 んだ男は、(その時はもう挟んでいなかったが)トロッコの側にいる良平に新聞紙に包んだ駄菓子をくれた。良平は冷淡に「難有 う」と云った。が、直 に冷淡にしては、相手にすまないと思い直した。彼はその冷淡さを取り繕うように、包み菓子の一つを口へ入れた。菓子には新聞紙にあったらしい、石油のがしみついていた。
三人はトロッコを押しながら緩 い傾斜を登って行った。良平は車に手をかけていても、心は外 の事を考えていた。
その坂を向うへ下 り切ると、又同じような茶店があった。土工たちがその中へはいった後 、良平はトロッコに腰をかけながら、帰る事ばかり気にしていた。茶店の前には花のさいた梅に、西日の光が消えかかっている。「もう日が暮れる」――彼はそう考えると、ぼんやり腰かけてもいられなかった。トロッコの車輪を蹴 って見たり、一人では動かないのを承知しながらうんうんそれを押して見たり、――そんな事に気もちを紛らせていた。
ところが土工たちは出て来ると、車の上の枕木 に手をかけながら、無造作 に彼にこう云った。
「われはもう帰んな。おれたちは今日は向う泊りだから」
「あんまり帰りが遅くなるとわれの家 でも心配するずら」
良平は一瞬間呆気 にとられた。もうかれこれ暗くなる事、去年の暮母と岩村まで来たが、今日の途 はその三四倍ある事、それを今からたった一人、歩いて帰らなければならない事、――そう云う事が一時にわかったのである。良平は殆 ど泣きそうになった。が、泣いても仕方がないと思った。泣いている場合ではないとも思った。彼は若い二人の土工に、取って附けたような御時宜 をすると、どんどん線路伝いに走り出した。
良平は少時 無我夢中に線路の側を走り続けた。その内に懐 の菓子包みが、邪魔になる事に気がついたから、それを路側 へ抛 り出す次手 に、板草履 も其処へ脱ぎ捨ててしまった。すると薄い足袋 の裏へじかに小石が食いこんだが、足だけは遙 かに軽くなった。彼は左に海を感じながら、急な坂路 を駈 け登った。時時涙がこみ上げて来ると、自然に顔が歪 んで来る。――それは無理に我慢しても、鼻だけは絶えずくうくう鳴った。
竹藪の側を駈け抜けると、夕焼けのした日金山 の空も、もう火照 りが消えかかっていた。良平は、愈 気が気でなかった。往 きと返 りと変るせいか、景色の違うのも不安だった。すると今度は着物までも、汗の濡 れ通ったのが気になったから、やはり必死に駈け続けたなり、羽織を路側 へ脱いで捨てた。
蜜柑畑へ来る頃には、あたりは暗くなる一方だった。「命さえ助かれば――」良平はそう思いながら、辷 ってもつまずいても走って行った。
やっと遠い夕闇 の中に、村外れの工事場が見えた時、良平は一思いに泣きたくなった。しかしその時もべそはかいたが、とうとう泣かずに駈け続けた。
彼の村へはいって見ると、もう両側の家家には、電燈の光がさし合っていた。良平はその電燈の光に、頭から汗の湯気 の立つのが、彼自身にもはっきりわかった。井戸端に水を汲 んでいる女衆 や、畑から帰って来る男衆 は、良平が喘 ぎ喘ぎ走るのを見ては、「おいどうしたね?」などと声をかけた。が、彼は無言のまま、雑貨屋だの床屋だの、明るい家の前を走り過ぎた。
彼の家 の門口 へ駈けこんだ時、良平はとうとう大声に、わっと泣き出さずにはいられなかった。その泣き声は彼の周囲 へ、一時に父や母を集まらせた。殊 に母は何とか云いながら、良平の体を抱 えるようにした。が、良平は手足をもがきながら、啜 り上げ啜り上げ泣き続けた。その声が余り激しかったせいか、近所の女衆も三四人、薄暗い門口へ集って来た。父母は勿論その人たちは、口口に彼の泣く訣 を尋ねた。しかし彼は何と云われても泣き立てるより外に仕方がなかった。あの遠い路を駈け通して来た、今までの心細さをふり返ると、いくら大声に泣き続けても、足りない気もちに迫られながら、…………
良平は二十六の年、妻子 と一しょに東京へ出て来た。今では或雑誌社の二階に、校正の朱筆 を握っている。が、彼はどうかすると、全然何の理由もないのに、その時の彼を思い出す事がある。全然何の理由もないのに?――塵労 に疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している。…………