ニューシネマパラダイス
20代前半に劇場版を観てとても感銘をうけました。
モリコーネの美しい旋律にのせ郷愁や哀別離苦への追憶を描いていく。
アルフレッドの死によってトトは、過去を懐かしい思い出に変えることにできたのでしょうか。
とても懐かしくて余韻の残るあたたかい気持ちを味わえる映画。
その後完全版を観ました。かなりショッキングで否定と肯定が入り交じる、何ともいえないざわざわした気持ちにさいなまされました。
エレナと再会し真実を知り一夜の愛を確かめ合うシーンは本当に必要だったのか?エレナが冴えないアイツと一緒になっているって、そんな現実はファンタジーには不要なんじゃないか?
あるいは蛇足で冗長ともいえる完全版。劇場版が美しいファンタジーに編集されていたという事実に困惑しましたが、懸命に完全版の真意を考えようとしました。
でも当時はまだ若すぎたようです。
その後20年ほどたち、たまたま地上波の新春特別映画で劇場版をやる事を知りました。家族は寝静まっており朝の4時薄暗い部屋でひとりで観ました。
そう月日は経ち結婚し子を持ちもうトトとほぼ同じ年齢になっていました。色々と問題は抱えてはいるけれど、家族を持ち生業といえる職も得て、物質的には恵まれていないけど外から見ればそう悪くない人生です。もちろん決定的に何かをやりそこなった思いや、哀別離苦の気持ちに苦しめられることもあるけど、それは誰しも抱える気持ちでトトもそうです。
いつものように映画史上最高といってもいいエンディングシーンが終わり、消化試合のようなろくでもないCMをぼんやりとながめ続けました。
実は20年ぶりに観て吐き気がするくらい何ともいえない嫌な気持ちに苦しめられていたのです。
全くわかっていなかったじゃないか!
俺は間違えていた!
アルフレッドも間違えていた!
トトと同年代になり再見した劇場版はただの商業映画で(もちろん完璧な)、ジュゼッペ・トルナトーレが本当に描きたかったのは完全版でパーフェクトに表現されいました。
それはいかに「生きる」かということ。そしてその答えは観るものの心の中にある。観るものが培ってきたモノサシで計ればいいということではないでしょうか。
ジュゼッペ・トルナトーレは1989年に33歳という若さでこの映画を創りました。恐るべし才能に敬服したします。
以下創作したトトの弔辞です
やあアルフレッド。
トトだよ。
話を聞いてほしい。
あなたは間違えていた。
今ならはっきりわかる。
僕は大好きな映画を作っている。
そして有名になった。
悪くない人生だ。
でも僕が一番に望んでいたのはエレナなんだ。
あなたは街を出ていけと言ったよね。
二度と帰ってくるなって。
恋の炎もいつかは消えるって。
エレナのことは諦めろと。
あなたには感謝している。
あなたのおかげで今がある。
でもそうじゃないんだ。
エレナに会ったよ。
やはり本当の気持ちだったよ。
それは今だから言えるんだって?
そうじゃないんだよ。
若い二人が一緒になって、もしうまくいかなかったとしても良かったんだ。こんな想いにずっと引きずられる事は無かったはずだよ。
王女と兵士の話をしてくれたよね。今はその本当の意味が分かるよ。
99日待ち続けて最後の日兵士は王女のバルコニーの下へ行かなかった意味。
あと1日で王女は兵士のものになる。でもそれは王女の逃げ道を奪う事になる。もし気持ちが通じていていたなら、最後の日に行かなくても王女は兵士のところへ来てくれたはずだ。
エレナが僕のところへ来てくれたように。
でもあなたはこう答えを教えてくれだ。
兵士は99日目まで待って去り、王女は100日目まで待っていたんだろう、という思いにすがりながら生きればいい。
でも本当は答えなんて分かってなかったのはわかるよ。
エレナとの最後の日あなたは結末を変えてしまったよね。
人生はお前がみた映画とは違う。人生はもっと困難なものだ。
そうあなたは言った。
でも人生とは映画を作るようなもんなんだよ!
ごめんアルフレッド。悪気はないんだ。色々言ったけど僕もエレナもあなたを恨んでいるわけではない。
しかたがなかったんだ。
こうしてエレナと再会できて、ひとつキリをつけることが出来たような気もする。
映画の結末を変えるわけにはいかない。
だから僕はローマに帰る。
さよなら
親愛なるアルフレッドへ
サルヴァトーレ・ディ・ティータ
ネットで見かけた完璧なレビューと「99日目の夜」
きょうのコラムに結論はない。
兵士はなぜ99日目で立ち去ったのか。
みなさんはどう思われただろう。
もし別の解釈があれば是非教えていただけないだろうか。