Toujours beaucoup

いつまでもたくさん

喝采2005

 40代に入ってしばらくした頃、高校を卒業してからずっと音沙汰の無かった友人、いや友人の親から報せが来た。おまけに黒い縁取りがしてあった。ちあきなおみの「喝采」じゃないんだから勘弁してくれよと思った。

 盛岡から在来線で2時間。知り合いは誰もおらず独りぼっち。帰りの上野駅で具合が悪くなって吐いた。

 朝起きてこないから見に行ったら冷たくなっていて。いまだに一人だったし私達も郷里にいる理由が無いからココへ来て一緒に暮らしていたのよ。友達で知っているのはあなただけだから、迷惑かもしれないと思ったけど報せるべきだと思ったのよ。本当にゴメンね。

 まだ41、あなたもそうね。突然なのよ。

 そんなことは分かってる。遅かれ早かれ人は絶対に死ぬけど、いい人が過ぎた人間は大抵早く死ぬ。年老いた両親はどうするのだろうか?

 僕の親兄弟は5人で叔父2人が既に鬼籍に入っている。古の教えの通り42と49の歳で、二人とも何の前触れも無く朝起きたら冷たくなっていた。しっかりしていなくて兄弟に迷惑ばっかりかけて、でも人は良くてふたりとも姪っ子の僕をよく可愛がってくれていた。

 42で死んだ叔父はニューヨークで独りっぼっちで死んだ。僕の初バイクはヤマハのGT50ミニトレで、その叔父が乗せてくれた。空を飛ぶってこういう感覚なんだ。アクセルを開けた瞬間にそう感じた。アメリカの永住権を取得するための手続きで一時帰国してしばらく僕のアパートに居た。
 
「日本にはもう俺の居場所はないね」
 
 精神的な意味でだったんだろう。キーポイントは弱さとかプライド、そしてどうしようもない閉塞感だったのかもしれない。

「俺は俺の弱さが好きなんだよ。苦しさやつらさも好きだ。夏の光や風の匂いや蝉の声や、そんなものが好きなんだ。どうしようもなく好きなんだ。君と飲むビールや(『羊をめぐる冒険』より)」

 黒沢明の「影武者」を観て銭湯を堪能しエビスビールを飲んだ。そしてエビスを飲みながら、モリワキの鈴鹿8耐のドキュメントを見て叔父はこういった。「うちの家系はガチガチだから、一人くらいこういう事をやるバカモノがいてもいいかもしれないな」その言葉が今の僕の背中を押すひとつの力になった。それが良いか悪いかはまた別の話。

 叔父が日本を出る前は恋人と別れ全力で取り組んでいた仕事も評価されず、ちょっとヤケになって全てを放り出し、山の中の一軒屋に篭っていたと思ったら(その頃その住処によく遊びに行って、ミニトレに乗らせてくれたのもその当時)、世界を2周くらいした後ニューヨークに住み着いた。大きな開かれた自由な世界を目指したともいえるし、日本から逃げ出したともいえる。

 レストランのマネージメントをしていたが、売上げのノルマやら仕事をしないプエルトリコ人。−たまたまそのプエルトリコ人がそうだったのだろう− そんなプレッシャーやストレスフルな孤独感。ニューヨークの片隅でそんな毎日をウンザリした気分で暮らしていた。−あるいはそれを楽しんでいたかもしれない− そしてある朝、いつものウンザリとした気分の朝-あるいはポジティブな朝-を永遠にキャンセルする事になった。


 その十数年後に49で亡くなった末っ子の叔父は僕が子供の頃、新車のセリカでよくドライブに連れて行ってくれた。とても人の良い奥さんと明るい性格で可愛らしい女の子二人と慎ましやかに暮らしていた。ところが末っ子の叔父も兄と同じように、何の前触れも無くある朝冷たくなっていた。奥さんと女の子二人を残して。そしても奥さんも数年前亡くなり女の子二人っきりになってしった。美人姉妹で性格も良いから、良いパートナーと出会えるように祈るしかない。

 ふたりとも毎日行き来する橋の床板が一枚だけ外れかけていて、それを不幸にもあっけなく踏み抜くかのような突然の出来事だった。


 確か二十歳を過ぎたくらいの頃、突然に部活の後輩が夢に出てきた。部活の後輩だった以外に、全く付き合いの無かった彼だから何となくその夢を不思議に思い覚えていた。しばらくして(数年後だったかもしれない)、その後輩が自ら命を絶ったことを聞いた。
 
「何だよ。何かメッセージがあるのかい?ちゃんと伝えてくれよ」
 しばらく気になってしかたがなかった。

 小学生のときは喘息持ちのアツシ君が亡くなった。「そんな事は分かっていたよ」そのときも何故かそう思ったんだけど、それ以降アツシ君と通っていた校門が何となく怖くて通れなくなって、遠回りして別の校門を通るようになった。きっと校門でアツシ君が待っていたんだろう。

 今思えばアツシ君には悪い事をした。