Toujours beaucoup

いつまでもたくさん

出発点

これは自伝ではない。自分自身の歴史を書くつもりは毛頭ない。改めて記憶の底から思い起こす必要の無い、忘れがたい印象を持つ出来事とその背景をランダムに書くつもりだ。

*1

道路の中洲のような電停で路面電車を待っていた。ポケットの中で握りしめた硬貨を何度も確かめる。幼い頃からの習慣だ。そんな時いつも思い出す。

 出発点

 父親が転勤族で生まれた場所は記憶に無い。記憶に残っているのは三つ目に移り住んだ土地からだ。

 ある夕暮れにバスを待っていた。小学校前のバス停。母親に与えられた銅貨を握りしめて。アポロ11号でアームストロング船長が月面に降り立ち、歴史に残る偉業を為し遂げたその国では「ここにはスピリッツの類は置いてありません」と歌われた頃のこと。子供の数は多く学校は不足していた。また住んでいる場所によっては長距離の通学を強いられることになる。徒歩で一時間はたっぷりとかかる道のり。

 普段の授業時以外の通学は帰り道を心配してバスを利用するように。
小学校に上がったばかりの僕にとってはちょっとした冒険だ。母親に与えられた小銭入れの中を何回も確かめる。バスに乗ってお金がなかったら大変だ。心配になって小銭入れから銅貨を取り出して握りしめる。

 待っている時にはバスはなかなか来ないものだ。バスが永遠に来ないのではないかと心配になる。真剣な面持ちを心配した上級生が声をかけてくれる。気を紛らわせるために、サンダーバード2号の構造について懸命に考えていた。

 そしてちょっとした悲劇が起きる。握りしめていた銅貨を落としてしまうのだ。音も無く側溝のフタとフタの隙間という日常的で絶望的な空間に。あきらめてバス停を立ち去りかけた僕に上級生が声をかける。しかし絶望的危機の僕は振り切りきって走るしかない。

 「バス大丈夫だった?」
 「うん」
 お金を無くした(落とした)ことに自責の念があるから母親には言えない。

 時間は溯るが小学校に上がる前に無鉄砲がもとで大怪我をして入院した事がある。傷は今でもくっきり残っている。おそらく大病院の小児科病棟に入院したのであろう。千羽鶴がいくつもぶら下がったベッドの難病であろう子供たちが多数いた。僕にとって先住者達は怖い存在だったが、かれらは仲間意識が強かったようで何かと気にかけてくれた。ある日おそらく手術室に運ばれていった同胞が、泣き叫びながら僕の名前を呼んでいた。幼い僕は処刑室に送られる仲間を、恐怖に怯えながら自分が同じ目に合わないように願っていた。
 
 外科的な問題だけだったから、しばらくすると退院することになった。こっそりと逃げ出すように退院して、少々後ろめたい気分でとぼとぼと母親と歩いていた記憶がある。あとで聞いた話では、病院の子供たちが消えた僕をめぐって阿鼻叫喚な状況に陥ったようだ。

 そして小学校に上がって最初の試練は、隣の席のミサちゃんだった。ミサちゃんは何らかの障害を持っていて、たしか歳も上で体も大きくちょっとした猛獣のようだった。したがってミサちゃんにとっての僕に対する愛情表現は少々荒っぽいものとなる。連発したのは消しゴム隠し。家に帰るときには返してくれるから親にはばれない。チビの僕にとってミサちゃんは怪物同然だからもちろん文句はいえない。溜まりかねた僕は先ずは母親に言うと、ミサちゃんにも抗議して先生に言いなさいと。
 
 ところが敵も然る者。消しゴムを奪い取られた僕が先生に言いかけると、さっと消しゴムを戻し「何もしていない」とアピールする。大体ミサちゃんには悪意が無いから立件が難しかったのだ。その後どうなったのかは記憶していないが問題は解決した。ミサちゃんは然るべき場所に行った(戻された)のではと思う。
 
 小学校生活にも慣れ最初の冬を越すころには、僕はすっかり元来の無鉄砲なお調子者になっていた。
 
 ある冬の朝。ぽつんと職員室のストーブの前に独り。母親が着替えを持ってくるのを待ちながら、自分の無鉄砲さ加減を呪っていた。そのころのハイテンションに怖い物は無い。通学中、前方に噴水を見つけ更にテンションアップ。走ってきた勢いの三段跳びでクリアしようとしていた。噴水の周りで上級生が騒いでいるが、僕の勢いは誰にも止められない。そもそも道路に噴水があるわけが無いが、無鉄砲な僕に迷いなどない。
 
 1歩目すでに着地の感覚は無く無音の世界に飲み込まれた。無数の泡が見える。道路の底が抜けた!いや違う。水道管が破裂して道路が陥没してできた人食い噴水に飲み込まれたのだ。見ていた人は本当に焦ったと思う。完全に頭まで飲み込まれたんだから。おそらく人生で何回目かの生死を分けた事件だった。その後僕は上級生らに助け出され、しょんぼりした顔で唇を紫にしガタガタ震えながら小学校へ向かった。
 
 「不思議の国のアリス」の不思議な世界に通ずるウサギの穴は、おそらくそういったところに存在する。

 春を向かえ2年生に上がったころ新たな試練が訪れた。聞いたことも無いような名前の、南の島へ引っ越すことになったのである。何故か涙が止め処もなく溢れた。

*1:※敬愛するロアルド・ダール「少年」の書き出しを引用させていただいた