Toujours beaucoup

いつまでもたくさん

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戦場のメリークリスマス

…世界観。つまり戦争社会が見事に演じられていたのではないか。 母親がどう感じていたのかは知らない。 ほとんど会話のない母子であったから。 最後の最期まで。 だけどおかげで、最後の1年の会話はほとんど思い出すことができるし、2人きりだった50年前の岐阜の長屋の借家時代の会話まで思い出すことができる。 日付が変わってしまったけど、メリークリスマス。 そして明日は僕の誕生日だ。 山羊座のAB型だし、いつもクリスマスと誕生日がごちゃごちゃになってしまうけど悪くはない。 youtu.be

この世は夢 わが王国へようこそ 零戦名古屋へ還りし

…零戦は牛車に乗せられ岐阜県各務ヶ原空港へ運ばれました。 長い旅を経て誕生の地に飛ぶことのできる零戦が里帰りしてきました。 MRJ自体には自らの手によって復元された零戦が数十年も前から存在するのですが、政治的な理由もありポジティブな遺産としては存在理由が認められず、もちろん飛ばすこともできません。 今回本当に困難な旅路を経て里帰りした零戦は民間によるもの。外国によるリビルト機で個人の日本人実業家の所有するものです。購入費用だけではなく維持管理費用も膨大で、支援者も募ってはいるの…

泪橋の桜の向こう側へ

…その子供たちの年頃は岐阜から沖縄へ移り住んだ時期。エキセントリックな街に不発弾まみれの自然もいっぱいあったところだし、いやそれしかなかったか、遊び道具も昭和博物館にあるようなものしかない、それよりもひたすら山、川、田んぼ、学校、広場、はるか遠くの海や時には街で遊んでいました。 遊ぶというよりは毎日が自分の限界を試す冒険でした。 そんなことを思い出したのですが、無限の空が広がるアウトドアで小さなモニターの中の世界に夢中になっている子供たち。 何だかもったいないですね。 でも子供…

バスのベンチシートからドイツ製のスポーツカーへの道程

…の1学期まで在籍した岐阜の、長良小学校の同級生に開業医の息子がいた。 S君といい家も近く良く遊びに行った。RC構造の立派な自宅兼医院で立派な芝の庭があった。お父さんの院長はタコ入道のようで偉丈夫な印象がかすかに残っている。 僕が沖縄に転校してしばらくした後、S君の父親が亡くなったという知らせがきた。 岐阜市内からS君の家に帰るには、山の麓の終点の集合住宅前までバスに乗る。僕の家は終点のひとつ前。 S君と父が家へ帰るバスのベンチシートに並んで座って終点に着いたら、眠っていたと思…

心の旅

…浜松(記憶にない) 岐阜(ここから記憶が始まり小2の1学期の終わりまでいた) 沖縄(小2の2学期から小6の1学期終わりまで) 豊橋(父が退職し生地であるここへ帰着した) 幼年時代の思い出から得た神聖で貴重なものなしには、人間は生きてゆくこともできない。 ドストエフスキーが言ったように、岐阜と沖縄の経験が僕の人格形成の基礎になっている。 pooteen.hateblo.jp 南の島へ - Toujours beaucoup 岐阜には40年ぶりに再訪したが、沖縄はそれっきりである…

マイノリティーとしての矜持

…は、小2の1学期まで岐阜にいた。転校する時にみんながメッセージを一枚一枚書いてくれた。その中に印象的なメッセージがあった。 沖縄はどんなところなのかな、海はきれいかな。 私もすぐまたどこかへ転校するの。お父さんの仕事の都合で、ずっと転校ばかり。 家では勉強勉強で毎日つらくてつらくて。 頭が良くて、ちょっと大人びた転校生の女の子からで、小2とは思えない達筆なメッセージと自画像のイラストが四つ切の藁半紙に鉛筆で描いてあった。 彼女もKといい、そのひたむきさはとても印象に残っている…

『トロッコ』 芥川龍之介

…報いがある。 去年、岐阜ハーフマラソンで長良川沿いを走りながら何回も見上げると、いつも金華山の上の岐阜城がみえた。 何だか見守られているような不思議な気分になった。 <a href="http://pooteen.hateblo.jp/entry/2014/05/23/104114" data-mce-href="http://pooteen.hateblo.jp/entry/2014/05/23/104114"&…

40年の不在

…りに幼少期を過ごした岐阜の街を訪れた。 鵜飼で有名な大河を基軸とする街。 40年の間にどれくらいの水が流れたのだろう。 ずいぶんと街は変わっていた。 足の赴くままに彷徨いながら、その頃のテリトリーに近づいていった。 地図はいらない。その頃のセンサーがまだ体の中に残っていた。 街外れの山の沢から広がる扇状地のエリアがそのテリトリーだ。 足されたものは多いが引かれたものも少なかった。 つまり当時の面影をそのまま残していた。 ただ小さく狭く見えただけだった。 側溝のすき間にバス代を…

1972

…ちょの自分はその当時岐阜に住んでいた。 その頃世界はとってもアナログで、アナログな長屋スタイルの借家に住み、アナログな近所付き合いのとなりの看護婦のお姉さんの家で、アナログテレビを観たり蜜柑を食べたりしてた。 アナログテレビではアナログな特撮で、アナログでまだまだ戦後の暗闇の臭いがするシナリオの、ウルトラマンや仮面ライダーを観たりしていた。 札幌オリンピックのテレビ画面では、アナログなスタイルの笠谷選手が、アナログな人力の飛距離測定員が並ぶ花道に、ときの声を発しながら栄光を掴…

夢想都市

…。40年の空白の間に岐阜市に飛行場ができたのか? 幼稚園に上がる頃から小2の夏までいた岐阜。岐阜市の外れの山の麓に住んでいた。高校の時と25の時に再訪した事がある。家を少し離れるとまさに日本の原風景のような所で、田んぼや畑、あぜ道、用水路。どじょうに蛭にゲンゴロウ。ひたすら歩き川をさかのぼり農業用水の工事現場に潜りこむ。道を遮る山案山子。山門。ロバのパン屋の糞尿の臭い。早朝の薄暗い山のに潜む生物の恐怖。 そんな原体験の影響か時折り「岐阜をオマージュした心象風景」のような夢を見…

五感に訴えるモノづくり

…。出張パン屋がロバで来る。小2夏までいた岐阜時代には辛うじて現存していた。覚えているのはボンヤリとした視覚のイメージと、ロバの糞尿の臭い(笑)とシンクロするパンの味。関連してどんどん思い出してくる。 田んぼの匂い。水路の泥の匂いと、ドジョウ、ザリガニ、蛙、ヤゴ、ゲンゴロウ。夜明け前の山の匂いと恐怖心。クヌギの樹と蜜の匂い。思い出すのは五感を刺激された様々な存在。だから何を創造するにしも五感に訴える何かでないと、飛び立てないのかなとしみじみ感じた。莫大なコストかかるけどね(笑)