断片
その女の子の名前は覚えていない。
でも雰囲気は良く覚えている。背が高く育ちの良さそうな優等生で、常にお淑やかで上品であることを求められている印象があり、またそれが彼女に少しネガティブな印象をもたらせていた。
少人数制学習塾で一緒になった子だ。
中3を控え周りが高校受験を意識しだすと、僕の成績は次第に落ちていった。
簡単な話で僕は全く家庭での学習が出来なかった。
机には座っていたけど10分と集中できず、そのばらまかれた10分と授業のリスニングだけで、僕の成績は成り立っていた。
特に記憶と作業がモノを言う英語の成績の失速がひどかったんだと思う。
危機感を感じた親は僕を少人数制の塾に送り込んだ。そこは退職した中学の英語教師の英語塾で、当然ながら中学英語ひいては受験英語を熟知しており、みるみるうちに僕の成績は上昇してテストで満点をとるようになった。
数学に関してはその元中学教師の息子が早稲田の理系で、彼に数学的素養の基礎的なものを習ったことがあり、まあそこそこ何とかなっていた。
国語に関してはとにかく本が好きというか、物語や記録に夢中で猛烈に読んでいたから、勉強なんかしなくても好成績が取れて、僕一人だけぶっちぎりの高得点の時もあったりした。
そんなわけで僕は相変わらず家庭では机に座って、ラジオを聞きながら本を読んだり夜な夜な妄想に浸っていた。
そしてもう秋になろうとするころ、一方の彼女の成績はパッとしなかった。きっともう頭打ちだったんだろうと思う。
元々成績の良かった彼女が、ふらふらしたもやしでチビの僕に追い越されてしまって心中も穏やかであるまい。
私はこんなに頑張っているのになんで
彼女は不満というよりそんな悲壮感を漂わせていた。
たしかに僕は頑張っていなかった。
たしかもう最後に近い定期テストだったと思う。
塾講師の思惑通りの設問で間違いなく満点だろう。
おそらく彼女でも満点取れるだろう。
そこで僕はわざと文章解釈に間違えた回答をした。
二重否定を肯定とするか否定と解釈するかで、どちらともとれないこともない。設問者に対する抗議の気持ちもあった。
塾で定期テストの結果報告をした。
彼女はやっと満点がとれた。僕はたしか96点だったように思う。
塾が終わると外で彼女が待ち構えていた。
はじめて口を聞いた。
マルマル君わざと間違えたでしょ。わたしにはわかるの。どうして
彼女は目にいっぱいの涙をためていた。
彼女はその後、僕と同じヒエラルキーの普通科高校に通い、きっと相変わらず努力を続けたんだろうと思う。自宅から通える県立外国語大学を卒業したあとわが街の市役所の職員になった。
しかし地方都市の市役所では、外大で培ったスキルを生かす所などなく、彼女は少し腐っていた。
その後彼女は海外相手の商社マンと結婚して、重なるようなタイミングで結婚相手のチェコ赴任についていった。
やっと親から逃げ出すように。
マルマル君の情けにはひどく傷ついたわ。
県立外大は私なんかよりずっとできる子ばかりで、学んだことを生かす進路にもし行けたとしても、もっとすごい人ばかりで、私がいくら努力してもついていけないことは、すぐにわかったわ。
だから市役所に行ったの。
でもまさか研修とはいえ、ごみ収集車や水道局の料金課に行かされるとは思わなかったわ。
親は外務省とかに行ってキャリアと結婚なんて夢みたいなこと言っていて、だから市役所なんかに行くからそんな事になるんだと言っていたけど。
家に縛り付けていたのにね。
おかしな話よ。
中部国際空港行きの特別列車の中で、偶然にも再開した彼女は一気にまくし立てた。
でも僕にとってはそんなことはどうでも良かった。
それは自己憐憫、責任転嫁、依存心と呼ばれているダメな女の三大要素だ。
そんなことよりチェコ共和国のことで頭がいっぱいになった。
そうね、でもそれどころじゃないのよ。ヨーロッパの人を相手にするのは仕事でもプライベートでも本当に大変なのよ。
なんていうか生き抜く力が日本人より全然優れている。
もちろん日本人にもいいところもあるわ。
でも総じて甘い。
でもマルマル君がわざと英語のテストで負けてくれたのに比べれば何ともないわ。あの時は本当に悔しかったの。テストは塾で習ったとおりでマルマル君も満点間違いないと思った。あーこれで最後まで勝てなかった、さえないチビでもやしくんに。そしたらマルマル君96点ってふざけてるの?どういう意味なの?って思ったら悔しくて涙が止まらなくなった。
こんなチェコの諺があるの。この諺を知ったときにマルマル君のことを思い出したわ。
隣の山羊も死ねばいいのに
ところで Czech no Republic ってなんなんだ?
ふざけてるのか?