Toujours beaucoup

いつまでもたくさん

木村先生の最後の授業 努力した者だけに夢を見る権利がある


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幼少の頃見た百科事典で人力飛行機として紹介されていた、日大理工木村研究室のオリジナリティ溢れる「リネット」初飛行のモノクロの写真が脳裏に焼き付いていました。

銭形警部がルパンを追いかけるパトカーのように、獲物を追いかけるような気持ちがあふれんばかりの伴走車に、飛び上がらんばかりの機体サポートの人影。

情熱が沸騰爆発したような初浮上の興奮の瞬間が手に取るように伝わってきます、

 

木村秀政先生は戦前から戦後にかけて日本の航空機の発展に大きく貢献したビッグネームで、零戦を産み出した三菱の堀越二郎氏、飛燕を産み出した川崎の土井武夫氏と並び、東大航空学科の天才三羽烏と称されていました。

木村先生は晩年には日大理工航空宇宙の名誉教授として、後進の育成と日本の航空界の発展に貢献して著書も多く残しています。

 

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僕にとって空への憬れ、そして「鳥人間コンテスト」も子供のころからのひとつの夢で、入学した日大理工時代は手を伸ばせばすぐそこに「本物」があったのに何やっていたんでしょうね。

その時は心変わりしてバイクしか眼中に無くって、良くも悪くも「ダメ人間コンテスト」に走ってしまったのでした。

動機もあって契機まで揃ったのに、滑走路をバイクで明後日の方向に走っていってしまったのですね。


1年次教育課程の日大理工習志野キャンパスには滑走路まであったのです。

・実際の名称は「交通総合試験路」なのですが、どうみても滑走路で通称も「滑走路」で、浮上試験飛行していた人力飛行機が離陸してしまって隣接住宅地に墜落する事件もありました。あれはパイロットに魔がさしてしまったでしょうかね。

本当のところは、常に勝ちを要求される日大理工の「鳥人間たち」はやはり「本物」であまりに「本気」すぎて変人の巣窟であり魔窟でした。

本能的にここに飛び込んだら絶対ダメになると感じて、つまりイカロスの翼と同じで高く飛び過ぎてしまって翼が太陽に焼かれてしまう。

自分の性分からして、茹で上がってしまうことが容易に予測出来て尻込みしてしまって、ビビって逃げ出してしまったのです。

そして代わりにレシプロエンジンの燃費レースの、ホンダ主催の通称「エコラン」に出ていました。スーパーカブのエンジンを大改造しチームで制作した3輪の車体に載せたマシンのドライバーに幸運にも選ばれたのです。腹這いで乗り込む地を這うようなマシンで、鳥人間を夢見た少年は、桶川のホンダ航空の滑走路のアスファルトの地面を這いつくばって走っていたのです。燃費はパッとしませんでしたがスピードは群を抜いていて、それはそれで面白かったのですがね。

  

僕が日大理工に入学した時には(しかもバイクばかり乗っていて航空宇宙は滑り二次死亡の他の学科です)すでに木村先生は鬼籍に入っていたのですが、だいぶ上の先輩らは木村先生の最後の特別講義を受けたことがあり、また驚くことに堀越二郎先生の特別講義もあったそうです。

両氏ともに講義は日本の航空史のマイルストーンになった、零戦や戦後初の国産旅客機YS11の思い出話が中心だったといいます。

大先生の講義であるからに、例えば宮崎駿が自己の半生や想いを、堀越二郎氏や堀辰雄氏というフィルターを通して表現した映画「風立ちぬ」のような哲学的な内容も織り込まれていたかとも想像していましたが、飛行機好きオヤジの笑いあり涙ありの楽しい講義だったようです。

学外からの飛び入りも含めた立ち見客で満員御礼の講義だったと。

 

過去の偉人たちや、名も知れず野垂れ死にした挑戦者たちは、想像を絶する研鑽と絶対に諦めない気持ちを携えたその先に、もう少し手で手が届く初めて本当の夢があったのですね。

僕は空だけではなく、バイクでも仕事でも夢と冒険の入り口のドアの前に何回も立つ機会があったのに、ドアを開くことができなかったのです。

 

今振り返っても、初志貫徹で勇気を出して飛び立って、カッコつけながら落ちれば良かっただけなのですけどね。

 毎年この時期になると思い出す、中途半端な選択を繰り返してきた自分らしい回顧でした。

 

木村先生すみませんでした。