心の旅
岡崎で生まれ小6まで転勤族だった。
浜松(記憶にない)
岐阜(ここから記憶が始まり小2の1学期の終わりまでいた)
沖縄(小2の2学期から小6の1学期終わりまで)
豊橋(父が退職し生地であるここへ帰着した)
幼年時代の思い出から得た神聖で貴重なものなしには、人間は生きてゆくこともできない。
ドストエフスキーが言ったように、岐阜と沖縄の経験が僕の人格形成の基礎になっている。
岐阜には40年ぶりに再訪したが、沖縄はそれっきりである。
今ではグーグルのストリートビューでバーチャル帰郷ができる。
景色がすっかり変わっていて探し当てるのに時間がかかった。というより住所で一発で出たのだが、ここだと分からなかった。
画像中央下の「へ」の字形状の道の中央部の更地部分は、裕福な家電店で賢い同級生美人姉妹が住んでいた。美人姉妹はCAになったと遠い便りで聞いた。いまやその痕跡もないとうのは、そういうことだろう。
画像中央の「エ」の字形状の大きめの建物は、下の画像を見ると上の階まで桟があることから脱走防止であろう。防犯ならせいぜい2階ぐらいまでだろう。「特別養護老人ホーム」なのだろうか。
この建物の場所がサトウキビ畑で、冬の収穫後は格好の遊び場だった。ロケット花火の打ち合いがエスカレートし怪我人が出て大騒ぎになった。
この特養(仮)の中央下の白い家に当時住んでいた。
ところで隣の家が取り壊されいるではないか。
なんと角の家が取り壊されて区画整理されている。正面のRC平屋が当時住んでいた家で、縞鋼板のステップの外階段で屋上に上がることができた。
暇さえあれば屋上に仰向けになって寝ころび、ずっと空を見ていた。高高度をゆっくりと動いていく大型の飛行機は白く透き通って見えた。
空の夢 ~さすらい~ - Toujours beaucoup
ここも遠くない未来に取り壊されるのだろう。
ストリートビューで進むとまだ古い映像で、隣の家は取り壊し前だった。当時からここは謎家だった。
軽自動車側が玄関で、雨風が直撃しないような囲いのある構造で、キュービック形状の明り取りのガラスと口の字形状のブロック積みをよく覚えている。沖縄県庁もこんな意匠があり、隣の家といい昭和の沖縄建築のデフォルトなのかもしれない。給湯器があるところが風呂で、当時直上の屋上にはドラム缶状のコンクリート製水タンクがあった。沖縄は石灰質の硬水で排水溝には石灰のツララができた。
通っていた小学校の航空写真をネットで見つけた。
小5の時の終業式の日に右下の体育館の横の崖から落ちて記憶が飛んだ。傾斜のある土地に建てられた体育館でグランド側と反対側は一回分以上の高低差があった。
左手の校舎もかなりの高低差があり、猿たち(僕ら)の格好の遊び場になった。
インフラ整備の遅れで学校は不足していて、グラウンド上部の平屋の建物は臨時のプレハブ校舎だった。小3の時に入ったが蒸し風呂のように熱い教室だった。
給食センターも敷地内にあり、また高層の校舎からは海が見えた。
そして今
画像を見て驚いた。
運動場と校舎の位置が逆転し、体育館のあった場所はプールになっている。
当時はプールはなく水泳の授業は、年に一回だけ遠くのプールのあるガッコまで行っていた。水遊びだけだったけど。
まだまだ日本は貧乏で産業のない沖縄は特に大変で、しかも年から年中水不足だったからプールどころじゃなかったんだろうと思う。
高層の校舎も低層のコテージ風に改変されている。ガッコの数が増えゆとりある生徒数になったからだろう。
今年こそ今年こそと言いながら長き月日が経ってしまった。友も死んだ。
記憶の痕跡がなくなる日は近そうだ。いや野垂れ死にする日の方が早いのか。
老龍頭の砦に籠った防人もこんな気分だったのだろうか。
老龍頭