はあちゅうに恋しちゃだめ
はあちゅう愛してるよ(笑)
この文章の「旅」と「仕事」を入れ換えても同じことだね。
目の前のことを誠実にコツコツとやるしかないのだ。
ハタチぐらいのころ「俺はオーストラリアに行けば絶対に変われる・・・
前回のエントリーで、はあちゅうさんの記事を取り上げたのですが、さらに引っ張る(笑)
この「旅ガールに恋しちゃだめ」も、「旅」と「仕事」もしくは「何かに打ち込んでいる者」に入れ換えれても同じ意味。
旅ガールに恋しちゃだめ、つまり理解して待っていればそのうち帰って来ますよ。あなと旅ガールとの愛が本物であるならば、彼女はそのうちに一番大切なものに気が付くはずです。あなたの愛が本物なら彼女の成長を待てるはずです。
もしくはさっさと次を探せと。
知らんけどな。
大学の時のドイツ語の授業でのこと。
教授の好きなオスマン帝国文化と核融合の独文を和訳していくだけの授業だった。中途半端にドイツ語やっても意味がないから、翻訳することで多少でも一般的な教養がつくようにとの親心であったに違いない。
そんな中で立花隆の「宇宙からの帰還」を紹介してくれた。
アメリカの宇宙飛行士たちが宇宙の旅から帰ってくると、人生観が変わりその後の人生が大きく変わったという話だ。つまり生身で生きることのできない、ある意味死の世界である宇宙の闇から美しい地球を眺めると、世界観が変わるというのだ。
俯瞰的な世界観になり、紛争などの不毛さ、環境汚染や貧富の問題をより深刻にとらえるようになる。そして宇宙からの帰還後に彼らは、政治家や実業家となったり、伝道者や超能力研究者になったり、精神がおかしくなってしまった者もいるという。
彼らに多く共通するのは、宇宙で「神の存在」を感じたと。当時はそんな話に純粋に心打たれたものだが、今は異なった見方もできる。
エリートパイロットからさらに選びぬかれた宇宙飛行士たちは、自身の才能と不断の努力で自ら運命を切り開いてきたわけで、神のおかげなんかじゃない、という傲慢ともいえる自負もあったはずだ。
そんな宇宙飛行士たちが「宇宙で神の存在を感じた」というのは、極限体験や達成感によりキリスト教徒だった彼らが最後に宗教に帰依しただけのことではないか。初期の宇宙計画はアメリカのアメリカによる威信をかけた国粋プロジェクトだったから、異教徒はいなかったはず(未確認)
ムスリムだったら宇宙にはアラーの神はいないし、仏教は仏陀になるための輪廻転生、因果応報に諸行無常だからもっと面倒な話になる。
ちなみに人類初の友人宇宙飛行をしたロシアのユーリ・ガガーリンはこんな体験をした。
宇宙から帰還したガガーリンの歓迎パーティにロシア正教のモスクワ総主教アレクシー1世が列席しており、ガガーリンに尋ねた。
- 総主教「宇宙を飛んでいたとき、神の姿を見ただろうか。」
- ガガーリン「見えませんでした。」
- 総主教「わが息子よ、神の姿が見えなかったことは自分の胸だけに収めておくように。」
しばらくしてフルシチョフがガガーリンに同じことを尋ねた。総主教との約束を思い出したガガーリンはさきほどとは違うことを答えた。
「宇宙で神の存在を感じた」というのは宗教的な感じ方で、聖書が愛読書のF1ドライバーのアイルトン・セナが、鈴鹿サーキットのカミカゼアタックで「神を見た(感じた)」のと同類なのではと思う。
ちなみに鈴鹿サーキットには志半ばで成仏できなかった浮遊霊がいっぱいいるという。
事実、霊の通り道になっているというルートの下の関係者パドックは誰も車中泊しないし、観客席の裏のブッシュの中に祠があるというのはホントの話。だからセナが感じたのは神ではなく霊だったのかもしれない。
さてそろそろ本題にもどろう。
「旅で人生が変わったとかいう人は中身がゼロなのです。」
タイトルを見て深読みしすぎた行間を読むのが好きな僕はですね、堀江貴文さんの自叙伝を思い浮かべてしまった。
「ゼロ なにもない自分に小さなイチを足していく」
はあちゅうさんが堀江貴文さんに、いきなりの下段蹴りをかましたのかと心配しましたよ。
もちろんそんなことは無かったのでご報告まで。