Toujours beaucoup

いつまでもたくさん

冒険の果てに

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皆が冒険家に憧れた時代があった。


携帯電話もGPSもなく、リアルタイムで実況されることも無かった。
 
人々は冒険の成功を祈り、冒険家の口から語られる旅の物語を待ち望んだ。
冒険家は成功すれば英雄、失敗すれば山師と呼ばれる。
 
なぜそんな苦労をしてまで冒険に挑むのかを、人々は冒険家に尋ねた。だが冒険の動機や意味などの理由をきちんと説明した冒険家はいない。
 
1923年3月18日付けのニューヨーク・タイムズの記事
 
Why did you want to climb Mount Everest?
 
「なぜエベレストに登りたかったのか?」
 
ジョージ・マロリーはこう答えた。
 
Because it's there.
 
「そこにあったからさ」
有名な言葉だが、実際にはマロリーは人々を煙に巻くためにそう答えたという説もある。
 
理由なんかなかったのだ。
意味なんてなかったのだ。
ただ駆り立てられただけなのだ。
 
冒険家は革命家みたいに、いちいちやることに理由をつける必要はなかったのだ。
 
ジョージ・ハーバート・リー・マロリー(George Herbert Leigh Mallory 、1886年6月18日 - 1924年6月8日)は、イギリスの登山家。
 
1920年代にイギリスが国威発揚をかけた3度のエベレスト遠征隊に参加。1924年6月の第3次遠征において、マロリーはパートナーのアンドルー・アーヴィンと共に頂上を目指したが、北東稜の上部、頂上付近で行方不明となった。マロリーの最期は死後75年にわたって謎に包まれていたが、1999年5月1日に国際探索隊によって遺体が発見された。マロリーが世界初の登頂を果たしたか否かは、未だに論議を呼んでいる。
 
公式な(つまり生きて帰った)エベレスト初登頂は、ヒラリーによる30年後の1953年まで待たなければならなかった。
 
マロニーがエベレスト初登頂出来たかどうかは永遠にわからないだろう。だが生きて帰らなければ登頂としない、という観点から、エベレスト初登頂はヒラリーの功績であるとされる。
 
1999年に映像で公開された、エベレストに眠るマロリーの遺体を見たことがある。70年以上凍結保存されミイラ化したうつ伏せの遺体。古い時代の装備はまるで時計の針を戻したかのようだった。
 
エベレストには今だに多くの遺体が残されており、道標となり登山者はその側を通り過ぎていく。残された遺体はグリーンブーツと称されている。
 
 
疲労で動けなくなり凍死したある登山者は、まだ彼が生きているのに多くの登山者が通り過ぎていったという。声をかけていたものすらいた。
 
また2人の登山者に発見されたある遭難者は、2人に連れて帰ってくれと懇願したという。
 
だがエベレストに限らず、困難な登山での極限状況下で、他人を救うのは難しい。
 
 
 
 
そして植村直己さん。
僕が知りうる限りで一番純粋な冒険家だ。冒険記は少年の僕の心を躍らせた。
 
 
キリマンジャロ麓の村でキクユ族の娘と瞬く間に恋に落ち一夜をともにした。お互いに初めての純愛。翌朝「一緒に住んで欲しい」とせがむ娘を捨てキリマンジャロ行きのバスに乗った。
少年だった僕は、植村はなんて無責任なことをするのだろう。ここで娘と一緒に暮らすのも悪くないじゃないか、と思ったりもした。
 
アマゾン河を目指すアンデスの山越えのバスでは、若い修道女に一目惚れして告白した植村は「私は修道女なのです。全ての人を平等に愛します。」とバッサリ振られる。
修道女をナンパしてんじゃねえ(笑)
 
そして植村はアマゾン下りの筏にその修道女の名前をつけたり、厳しい氷雪の壁でその修道女に助けを頼んだりした。
 
 
だがその後の植村の冒険はエンターテイメントのようになってしまった。
 
大手広告代理店が手厚い体制と、義務感を与える。
 
撤退する勇気と臆病さは何度も植村を救ってきた。
 
だが最後となったマッキンリーの冬季単独登山では、雪洞に残された最後のにっきには植村らしからぬ、冷静さを欠いたような心境が綴られていたという。
 
熱くなりすぎると勝機を見失う。冒険ではそれは生命に関わる。
 
エベレストなどの高地登山では、組織的に登山を行う極地法と、あくまでも純粋な登山スタイルを貫くアルパインスタイルがある。
 
極地法
ベースキャンプから段階ごとに次々と前進キャンプを設営する。隊員はキャンプ地間を行き来して、必要物資を運搬する。それぞれのキャンプ地の隊員の援助を借りつつ、最終的に少数の隊員が頂上を目指すのが、この登山法である。
8000メートル峰を中心とした高所登山において成功率と安全性を高める為に生み出された方法であり、1953年のエドモンド・ヒラリーテンジン・ノルゲイによるエベレスト初登頂時にもこの方法が用いられた。現在でも公募隊によるエベレスト等の登山においてはこの方法を使用しているが、登頂に多くの期間と人員そして多額の費用が必要であること、少数の登山者のために大量の人員を投入すること、山に膨大なゴミを残すことなどに対して批判も存在する。
登攀技術や装備が進歩し世界中の高峰登頂が達成し尽くつされた現代、記録達成を目指す先鋭的な登山家の間では、アルパインスタイルによる未踏の困難なルートを切り開くことに主眼が移っている。
 
アルパインスタイル
国際山岳連盟(UIAA)はアルパインスタイルに対して以下の定義を提唱している[1]。
クライマーは6人以内。
酸素ボンベは持たない。
固定ロープを使用しない。
高所ポーターやシェルパの支援を受けない。
 
植村は極地法で日本初のエベレスト登頂を果たした。お金を積めなかったので本来は登頂メンバーには入る予定は無かったが、抜群の体力を含めた登山スキルを買われた。
これは植村の実力であり価値あるものだが、本人はこれをよしとせず、また肌にも会わないために、以後単独登山のスタイルをとるようになった。アルパインスタイルである。
 
この極地法とアルパインスタイルは、身近な社会生活と同じだ。
 
極地法と同様に社会組織に属し勤勉なシェルパになるか、組織のトップを目指すか。
 
僕は29の時に独立した。つまりひとりでアルパインスタイルをとることにした。
そんなに高みを目指していたわけでもない。なんとか登ってはいったが、ある地点で目をつぶってクレバスを飛び越えるような無茶をした。
その死の淵をクリアすれば、新しいルートが開けるはずだ。
そんな思いで何とかクリアした途端に猛烈な嵐に見舞われた。リーマンショックだ。高地登山の極限状況と同じ誰も助けてはくれない。今思い出しても吐き気がする。
 
何とか一命を取り留めた感じだ。
そして今はなんだろう。山の麓の焚き火の番人か何かだろうが。ジョージマロニーや植村直己さんでなかったのは確かだ。
それともグリーンブーツなのだろうか。
 
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