Toujours beaucoup

いつまでもたくさん

有事の心

5年前の今日に東日本大震災で、被害に遭われた方々に心からお見舞い申し上げます。

 

・帰宅難民

 新宿から津田沼まで、靖国通りを4時間掛けてひたすらに徒歩で帰った友人が思い出されます。もちろん友人は、会社か近隣に待機して、公共交通の復旧を待った方が賢明だというのは理解していました。

「それでも何が起こっているのかを、どういうことになるのかを、身をもって体験する、体に刻み込むために歩いたんだよ」

色々なことを考えて歩いたそうです。普段考えない(思いつかいない)ようなことも考えることができた。途中途中での自転車争奪戦も興味深かったと。

彼は軍人家系で、お父さんは旧日本海軍医。祖父の一人はウィキペディアにも載っている、旧日本海軍の切り札でもあった世界随一の兵器の開発責任者。もうひとりの祖父は、スタンフォード大学出で日露戦争資金繰りにも大きく関わった、英国資本の某国際的銀行のブレインとなりました。ところが上海事変勃発で敵性銀行ということで去ることになりました。そして戦後は日本海軍大村基地接収の世話役を務め、この功績で祖父の名を冠した町名が残っています。驚いたことに、政情不安による退職という不義理な理由ということで、祖父は昭和50年代に亡くなるまで、毎月お給金が某銀行の頭取名で振り込まれていたそうです。

 

・600キロ離れた街のスーパーまで空っぽになった。

 僕の生活圏内のスーパーは空っぽになりました。とくに水。

こっちは何の被害もなく、水もガスも電気もいつも通り。被災地に優先的に物資が回る事を期待していました。ところが、震災ショックによる買い漁り備蓄心理が働き、スーパーというスーパーが空っぽになりました。特に水。

こういう集団ヒステリーは良くない、水等はむしろ買い控えるべきだ、そう主張する僕に、かみさんには正反対の意見で嫌味を言われました。

アタシだってお金があったら買い占めたいよ!

勝手にすればいいさ

 

・燃料難民

 震災後にここ東海地方から東京へ車移動した友人がいました。急を要する用事ではないので、状況からみてキャンセルすべきです。そして案の定、東京で燃料難民となりました。そして燃料を探すために燃料を消費し、混雑に加担し、どこかで恫喝まがいに無理やり給油して帰ってきたことを、武勇伝のように語っていました。

糞が

 

 

帰宅難民の友人が言っていました。

きっと戦争のときに空襲に遭った時もこんな感じなんだろうな。みんな勝手に我先に自分本位の行動に走る。

 

うちのかみさんや、燃料難民のような友人はきっと、有事の際の大多数の人なんだろう。

 

東日本大震災では1万6000人の人が亡くなりました。90%が水死。

フィリピンの戦いや沖縄戦とともに、第二次大戦屈指の最激戦地の一つとして知られる硫黄島の戦いの日本軍戦死者に近い死亡者数です。

 

遠州灘では津波対策が皆無に等しく、地価は下落し、万里の長城のような防潮堤が延々と構築されています。

水死した90%の人々や原発事故からの教訓はごくごくシンプルです。

ここでは言及しませんが、心して生きて行きたいですね。