フェイスブック難民とインスタそして清原和博
もう公然の事実に近かったようで、崖っぷちにぶら下がって今にも手が離れそうな清原を助けるものはいなかった。巻き添えを食らわないように周りの人間は一目散に逃げ出した。義兄弟みたいだった兄貴分はなんだったんだ。
たしかに清原の自業自得でもある。
だがあれほど野球馬鹿で、野球しかない人間はいない。
清原-野球=非清原
人は誰しも弱さというものを持っている。
清原は天性の才能が強すぎるが故に弱さをコントロールできなかった。
どんどん弱さというものは大きくなってくるから、周りの人間が管理してコントロールするべきでもあった。花形球団のスター選手には誘惑も多く、言うこともなかなか聞かないし、奥さんでも止める事はできなかったのだろう。
でもそんな事は、野球界の目上の人々は分かりきっていたはずだ。
野村克也さんが言っていた。
「清原は王を凌ぐ才能の持った男で、今なら監督をやっているべきだった人間だ。でも周りが清原の人格を育てなかった。」
「だったら野村、お前がやれよ」って突っ込みは無しだ。
そういう巡り合わせにはなかったのだ。
かおりんさんは、記事について謝罪していたんだね。
彼女のような意見は常々僕も感じていた。
フェイスブックの若者離れはもう自明の理。
実名性SNSとして瞬く間に普及したフェイスブック。当初は思惑通りの成長をみせていて、僕も自分のキャラ宣伝ツールとして利用していた。商品ではなく己のキャラを売るのである。若者も姿も多く健全な世界であったように記憶している。
ところが2013年あたりから爆発的にユーザーが増えてきた。実名性が故に実社会に近くなり、ネットリテラシーの欠如した(自覚も向上心もない)もの、極右や極左のプロパガンダ的ツールにするもの、歴史修正主義者、リアルの縦社会のルールを強要するものが目立つようになってきた。
結果サイレントマジョリティーが増え若者は去った。僕も、もはや生存確認ツールとしてしか利用していない。
そしてインスタ
センスの良い写真や心和む写真が多く、またフィルターツールのセンスも良かったので、フェイスブックとは切り離した、フィクション(匿名性)の物語の世界のように楽しむことができた。
ところが昨年あたりから、インスタにフェイクブックの友人の流入が増えてきた。
まるで難民のように。
インスタに「負傷画像」「おっさんの絵日記」「今日も感謝感謝」なんかいらない。
かくいう僕もおっさんなのだが、かおりんさんのいう「おばさんたち」は概念的なもので、「感性を捨てた烏合の衆たち」に来てほしくない、もしくは半年ロムってから来いという意味ではないか。「2ちゃんねる」の暗黙のルールを知らずに不用意に書き込むと「半年ロムってから来い」と罵倒されたのにも似ている。
西野カナで盛り上がっているカラオケルームに遅れて乱入して、「男と女のラブゲーム」を歌うわけには行かない。
だって、かおりんさんも「そんな私もセンスのいい画像の女子高生とかに比べるとおばさんだし」という但し書きもある。
ただインターネットツールは現れては消え、隆盛を誇ったSNSといえども陳腐化していく流れというものはある。
清原はリアルの人間でインターネットツールではない。野球界のツールのひとつとして消えていくような人間ではないだろう。しばらく臭い飯を頂くことになるかもしれないが、健康的な麦飯などある意味ミニマリスト的な暮らしで、人格者として戻ってきてほしい。