Toujours beaucoup

いつまでもたくさん

狂った朝の光のようにマシンは叫ぶ

Mazda 787B, Le Mans 2011. Premiere partie de la ligne droite des hunaudieres. - YouTube

youtu.be

ボリューム注意。
 
ルマン24時間で執念の優勝をしたマツダの787B。
 
叫びそのものである。
 
1991年の悲願のルマン初優勝。
チェッカーを受けたドライバーのジョニーハーバートは、3連続走行による疲労と脱水症状のため表彰台に登ることができなかった。
20年後の2011年、ジョニーはやっとポディウムに登ることができた。粋な計らいである。こういうことの出来るメーカーは強い。マツダは数々のピンチを何度も立ち上がってきた。
そして現在、VWがグレーゾーンを攻めすぎてスキャンダルとなった厳しい排ガス規制を、独自の技術で正攻法でクリアしている。
 

2011年ル・マン再走[編集]

優勝から20周年となる2011年ル・マン主催者側より招聘され、レース開始前のル・マンのコースで、787Bのデモ走行ができないか、という提案であった[7]。787B 1台のためだけのデモランであり、異例の待遇であったが、マツダでは招聘に応じるか、787Bに大金をつぎ込んでレストアする価値があるのか、など、なかなか決済が降りなかった[6]。やっとGOサインが出たのは東日本大震災の1週間前であり、ギリギリのタイミングであった[6]。この招きに応じるために、787Bはエンジンを新調[8]。車体もフルレストアされ、優勝当時の走行性能を取り戻した。使用の可否がわからず既製品のスチールローターに換装されたブレーキ[9]、そして「がんばろう日本 NEVER GIVE UP! MAZDA」というステッカーが追加された以外は当時とまったく同じ仕様であった。R26Bは202号車のスペアエンジン用を合わせて、2基が組み上げられた。保管されていたパーツを中心に組まれたが、一部パッキン類は新たに作成された[6]。保管されているパーツの中で、状態の良いものから順に使用してきたため、R26Bエンジンが整備されるのは今回が最後とも言われている[6]マツダモータースポーツから完全撤退して久しく、すでに社内に700馬力に対応するテストベンチもなく[6]オーバーホールされたエンジンはテストされることなくそのまま車体に搭載され[6]。2011年5月17日、美祢自動車試験場にてエンジンラッピングを兼ねて公開テスト走行が行われた。ドライブしたのは寺田陽次郎従野孝司片山義美の3人[10]

ルマンでは、2011年6月9日~11日にデモ走行が行われた。6月9日は、アメリカ人俳優でアメリカ・グランダムGTシリーズにRX-8で参戦するチームのオーナーであり、自らドライバーでもあるパトリック・デンプシーが、サルテサーキットを2周走行した。

6月10日は、レース前日の恒例行事の「ドライバーズパレード」に参加。787Bをデイビッド・ケネディーアイルランド)がドライブし、ル・マン市内を駆け抜けた。ロードスターでのパレードなども行われた。

6月11日、レース開始前の12時30分頃、787Bは大勢の観客が見守る中デモ走行を行った。ドライバーは、優勝時のドライバーの1人であるジョニー・ハーバートが務めた。ジョニー・ハーバートはこの日のために絶食ダイエットを実施し、レーシングスーツを着るために体を絞った[6]。この走行ではマツダに許可を得て、エンジン回転制限なしの走行となった[6]。当初デモ走行は1周の予定であったが787Bはコースを2周することを許された。その後ジョニー・ハーバートは1991年に優勝したにも関わらず脱水症状によって立つことが出来なかった表彰台に笑顔で飛び乗った。その際1991年と同様に脱水症状で立てなくなるパフォーマンスを演じ、関係者らによって表彰台に運ばれるという一幕もあった[6]ピエール・デュドネベルギー)、寺田陽次郎などの元マツダチーム関係者も現場にかけつけ、再会を祝った。それらの様子は車載カメラなどとともに詳細に記録され、マツダによって YouTube などで公開された[11]。その後55号車はイギリスでのイベントに参加し、日本に帰った。