Toujours beaucoup

いつまでもたくさん

サイレントマイノリティ

 

 

ああやはりしんでしまったか : 真実はどこにあるの?

 

苦悩と戦いながら、あるいは絶望しながら、いつかそれにキリをつけるということ。

 

同じ病気を持つ人と多数知り合って、治ってほしいと思う人と、楽になってよかったねって思う人がいる。おおざっぱにこの2つに分かれる。どっちも強い共感(好意)を持つのに、その違いはなんだろうと思うが、分析しないでいいと思う。ただ僕自身は、治っていくタイプなんだろうと感じてる。

 

楽になってよかったねって思う人

これは分かる気がするな。

棺の中の別人のような、苦悩から解き放たれたような安らかな顔を見ると、こんな風に感じてしまう。

「ああ本当に苦しかったんだな。やっと楽に成れるんだな。良かったかもしれない」

 

逃げ道のない軍隊社会は自殺者も多かったと聞く。

経済的な理由で志願した兵士も多く、軍隊生活の厳しさと理不尽さは、真実を求める者にとっては日々葛藤であっただろう。逃げ道もない。

 

 
艦尾に着いてみると、新兵たちは食缶をそのままにして、茫然と海の彼方を眺めていた。
一面に真っ暗な空。水平線も分からない黒い海。その中に青く長い線がくっきりと浮かび、足下の艦尾から海面を真っ直ぐにどこまでも延びている。美しい、幻影を見ているようだ。
本艦は今、二十ノット以上で驀進している。二つのスクリューは高速回転で太平洋の黒潮を掻き回している。ゴーッと吠えている汽缶のエネルギーが、夜光虫の光の線となって、冷たく美しい航跡を描いていた。
ここへ来い。この美しい光の帯に乗れ。一歩踏み出すだけでお前は楽になれるのだ。そうだ、もう一歩だ、と呼んでいる。今のこの苦しみからなんとか逃れたい。飛び込もうか、一歩進むだけだ、どうしよう。
誰の目元も濡れていた。思いはみんな同じである。今ここで誰かが飛び込めば次々と行動を共にしたことであろう。
「おい皆、ゼンザイは食えたか」
突然、誰か声を出した。ハッと我に返って命を取り止めたのである。いま思い出してもゾッとする。海軍生活四年半のうち、本気で死のうかという気になったのはこの時だけであった。死に神に招かれたとは、こういうことを言うのであろう。

 

ふとした瞬間に頬を舐める死の囁き。
 
宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」は死生観を夜空に見ていた。駆逐艦水兵が、天の川のような幻想的な夜光虫の群れに、真実の白刃をつき立てられたように。宮澤賢治の、命と引き換えにしたような豊かな感性は、真実との苦しいマラソンのようだったのかもしれない。
星祭りの夜、居場所を失い、孤独をかみしめながら登った天気輪の丘で、銀河鉄道に乗り込み、親友カムパネルラと銀河めぐりの旅をしばし楽しむ。二人は旅の中で出会う様々な人の中に次々と生きる意味を発見して行く。 旅の終わりにジョバンニはさそりの話に 
 
”ほんとうのさいわい”を採りに行くような銀河鉄道の旅。“ほんとうのさいわい”とはブータンシンボリアゲハのようなものだったのか。
 
松本零士銀河鉄道999」の永遠の命というテーマ。
手塚治虫火の鳥」のような輪廻転生。
サンテグジュペリ「星の王子様」
 
銀河鉄道の夜」に出てくる鳥捕りと燈台看守というモチーフは、「星の王子様」の王子様が訪れる星の住人たちの、点灯夫や地理学者と共通する業がある。
 
鳥捕り
銀河鉄道の乗客の一人。雁やさぎなどの鳥を捕まえ、押し葉にして食用に売る商売をしている。
 
燈台看守(燈台守)
銀河鉄道の乗客の一人。灯台の明かりを規則どおりに間歇させるのが仕事
 
娘の幼稚園の遠足で動物園に行ったことがある。
保護者同行で動物園集合だったんじゃないかな。エントランスの花壇の前で集合写真を撮って、その後しかるべき行事をこなし(もう覚えていない)、お弁当の昼食後自由解散になった。
お弁当をどう用意したのかも全く覚えていない。
広場でママ友毎にグループでお弁当を広げる。僕は幼稚園内の政治には疎いので、サイレントマイノリティとして、娘と二人で木陰でお弁当を食べることにした。
しばらくすると娘の男の子友達がお母さんとやってきて一緒にということになった。でも若干政治的配慮に欠けると思ったので確認はした。
「少しまずくないですか?色々お母さんグループとかあるじゃないですか。僕は気にしませんけどね」
「私もそういうのがダメで、でも孤立するのも、と思っていたらこの子が「○○ちゃんがあそこにいるから一緒に食べる!」というから…」
カタカナの名前の、目がくりくりしたかわいい男の子で、それを証明するかのようにお母さんも昭和のアイドルみたいなちょっと幸薄そうな美人さんだった。
 
その後娘は何かの間違いか、学芸会の劇の王女役に選らばれてしまった。そしてあろうことか王子はそのカタカナの男の子。
 
革命だ。
 
ほかのお母さんたちは我が子を是非とばかりに、園長や先生に媚びまくって貢ぎもの嵐だったのに、ノーマークの我々ペアが主役に選ばれたのだ。もちろん嫌っかみもすごく孤立路線を深めて行くことになった。僕の同級生の子もいて、ある日同級生の奥さんお母さんに挨拶をしたら、完璧にシカトされた。後にも先にもあんなに完膚なきまでにシカトこかれた事はない。数年後理由がわかったがやはり「気に入らないから無視することにした」らしい。
 
教育方針が良かったのでお世話になった幼稚園だけど、田舎の金持ちが通う傾向が強いところで、まあそういうことなんだろう。
 
死んでしまったその先の世界があるとしたら、僕はうまくやっていけるのだろうか。
天国でも心を痛めて夜も眠れない人がいるのだろうか。
先逝した愛犬に再会できて飼う事は許されるのだろうか。それだったら悪くない。