Toujours beaucoup

いつまでもたくさん

トンネルの中の断食芸人

@kafkafbot: テラスで小さなパーティがひらかれていた。地面より高くなっていて、列柱で屋根をささえたテラスである。満月が出て、あたたかい六月の夜であった。一同じつに陽気で、なにかにつけてぼくらは笑った。遠くのほうで犬が鳴いても、そのことで笑った。『断片』

 
懐かしい少年時代の思い出の情景のように、シンプルで美しいカフカの文章には惚れ惚れします。
 
フランツ・カフカの「断食芸人」という短編があります。
 
 この何十年かのあいだに、断食芸人たちに対する関心はひどく下落してしまった。以前には一本立てでこの種の大きな興行を催すことがいいもうけになったのだが、今ではそんなことは不可能だ。あのころは時代がちがっていたのだ。あのころには町全体が断食芸人に夢中になった。断食日から断食日へと見物人の数は増えていった。だれもが少なくとも日に一度は断食芸人を見ようとした。興行の終りごろには予約の見物人たちがいて、何日ものあいだ小さな格子檻こうしおりの前に坐りつづけていた。夜間にも観覧が行われ、効果を高めるためにたいまつの光で照らされた。晴れた日には檻が戸外へ運び出される。すると、断食芸人を見せる相手はとくに子供たちだった。大人たちにとってはしばしばなぐさみにすぎず、ただ流行だというので見るだけだが、子供たちはびっくりして口を開けたまま、安全のためにたがいに手を取り合って断食芸人の様子をながめるのだった。
 
断食芸人の時代は終わり人々に忘れ去られても、彼は檻の中でなおも断食を続ける。最期に彼はこう言い残し息絶える。
 
「うまいと思う食べものを見つけることができなかったからだ。うまいと思うものを見つけていたら、きっと、世間の評判になんかならないで、きっとあんたやほかの人たちみたいに腹いっぱい食っていたことだろうよ」
 
そして彼の去った檻には生命力溢れる豹が入れられる。
 
カフカの水彩画のような文章と同様に、川端康成の極限までに無駄を削ぎ落とした文章にも惚れ惚れします。そこには一切の無駄もありません。しかしそこからイメージできる情景は無限に広がります。
 
(私は汽車に乗って旅に出て)国境の長いトンネルを抜けると(そこは)雪国だった。
 

 

川端康成「雪国」のあまりにも完璧な冒頭文。主語も余計な説明も省かれています。「国境の長いトンネル」と「雪国」で汽車で旅に出ていることはあきらかです。   
 
このブログも極力文章をシンプルにするように心がけています。
 
ほとんどの場合、冒頭とオチが決まっていて、それを活かすために書き進めていきます。
ふと頭に浮かんだヒントをiPhoneのメモ帳に書き留めておきます。全くのノーアイデアで白紙に向かうことはありません。いやモニターだな。
 
このエントリーはTwitterで目にした、カフカの「断片」の一節について何かを書こうと決意し、「断食芸人」の顛末で締めようと考えました。
 
粗々の文章はこのエントリーだと、字句の確認をしながら大体20分くらいで一気に書いてしまいます。その後何倍の手間をかけて、まあそんな大げさでもないのですが。通りすがりに眺めてはちょこちょこいじったり、盛ったり削ったり、また事実関係を検証したりします。基本は事実に基づいたフィクションです。
 
川端康成も寿命を全うすることなく、この世を去りました。厭世観の呪縛から逃げるためでしょうか。
その姿はまるで「断食芸人」のようです。
 
川端康成もまた自身に合った食べ物を見つけることができなかったのでしょう。