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Toujours beaucoup

いつまでもたくさん

タイムマシンにお願い 名古屋シネマテーク

映画
どうしても観たい映画があって、名古屋のミニシアターへ行ってきた。
 
ありえないような場所にありますから。
時間軸が異なったような繁華街にある雑居ビルの二階です。  
 
その通りだった。
駅から乗ったタクシーの運ちゃんも知らない。
新宿どころか香港か台湾のような雑居ビル。謎のトンネルのような飲み屋への入り口や、中国語だらけの食材店をクリアした二階の奥にあった。そこは学生時代の東京の名画座や、新宿の雑居ビルのような時空を超えた空間だった。
そのノスタルジックな心地良さは、映画「ニューシネマパラダイス」の、30年ぶりに帰郷して参列した恩師の葬儀のシーンのようだった。
もう映画はおまけだ。
 
ロビーは中古レコード屋のような映画好きの空間。旧作パンフレットやポスターがぎっしり。一般教養科目の大学教授のような男性が切り盛りしている。とてもフラットな接客で好感が持てる。
 
お金を払って整理券をもらい待機する。前の映画が終わると整理券の番号が呼ばれ、整理券を渡しながら順番に入場し好きな席を選べる。
 
コールが始まった瞬間に前の女性が、おもむろに天を仰ぎ眼薬を点し出したのが、とても印象的だった。
なんだかそれがとてもプロっぽくて負けた気がした。

まるで希望の光が雲の切れ目から差しているような、そんなとても居心地良い空間。
個性的な飲食店が並ぶ通りを少し歩き千種駅から中央線で金山まで出て、名鉄の最終で豊橋に帰った。その費やした時間に余韻が柔らかく収束していくような、なんともいえない印象的な出来事になった。
 
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居酒屋「六文銭」ですよ。
六文銭は死者への餞に使用する。
 
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異次元ポケット
 
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喫煙場所
階段の踊り場ともいう
 
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ホームシアターとは違うのだよ
 

liverary-mag.com

 
 

ゴヤシネアスト編集

1971年1月23日、現名古屋シネマテーク代表の倉本徹が所属する名古屋大学映画研究会は、名古屋市中区で初の自主上映活動を行った。1972年には映画研究会が空中分解したが、1973年には活動を再開し、倉本を代表とする自主上映サークル「ナゴヤシネアスト」(シネアストとは映画人の意味)となった。ナゴヤシネアストは大島渚監督特集、ジャン=リュック・ゴダール監督特集、ポーランド映画特集、ソ連映画特集、アラン・レネ監督特集などを上映したが、名古屋市内の貸しホールを使った上映活動は赤字続きだった。倉本は地元予備校の河合塾講師として活動資金を稼ぎながら、ナゴヤシネアストは9年間に渡って自主上映活動を続けた。1980年には年間約80日間の上映活動を行い、100本以上の映画を上映。[5]

名古屋シネマテーク編集

1982年6月26日、かつて今池スター座が入居していた今池スタービル(雑居ビル)に名古屋シネマテークが入居し、常設映画館としての活動を開始。開館にかかった工事費・設備費の総額は974万円であり、35mm・16mm映写機を常設して興行場としての認可を受けた。固定席は40席(最大収容数80人)であり、これは現在も変わっていない。2000年代半ばまでは長らく、名古屋シネマテークは企業ではなく同好会だった。名古屋シネマテーク名古屋市で初のミニシアターであり、開館翌年の1983年には名古屋駅の西側にシネマスコーレが開館している。6月26日の初回上映作品は羽田澄子監督の『早池峰の賦』であり、その他はハンガリーアニメーション特集、ハンガリー映画祭、イタリア映画傑作選、シュレンドルフ回顧展というラインナップだった。開館後の半年間は金・土・日の週3日上映であり、フロアの賃貸料は月額約20万円の安さだった[12]。1984年からは週7日上映に移行し、同年末の勅使河原宏監督・『アントニー・ガウディー』は2週間で5,000人近くの動員を記録。1987年には、1982年の開館時からスタッフを務めていた平野勇治が支配人に就任。[2][5][6]

1990年代の名古屋シネマテークは「安定期」であり、ミニシアターとしては異例の年間50,000人もの観客を集めた[3]。1998年に全国的に大ヒットを記録した『ムトゥ 踊るマハラジャ』は名古屋シネマテークでも好評だったが、倉本はこの頃を境に「下降期」が続いていると語っている。2003年12月にアッバス・キアロスタミ監督の『10話』を公開した際には、別件で訪日中のキアロスタミ監督が突如名古屋シネマテークに現れ、舞台挨拶を行なって観客と支配人を驚かせた[13]。1982年の開館当初から名古屋シネマテークは同好会という立場だったが、2006年頃に一般社団法人名古屋シネマテークとなった。2006年頃には今池スタービルからの移転も計画されたが、移転計画先ビルの耐震偽装問題によって頓挫。2014年にはシネマ・シンジケートに加盟しているミニシアターや独立系映画館で相互割引制度が開始され、名古屋シネマテークは制度導入の発起者となった[14][5][8]