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桜の花 映画「永遠の0」レビュー

2014年1月の映画レビュー。

この季節の桜の儚さはどうしても「桜花」を思い出してしまう。



原作が空前の大ヒット。そして映画化された「永遠の0」を観てきた。映画も興行成績のトップを飛ばしているらしい。

 

封切りして一ヶ月後の平日のレイトショーで、映画館は時間的にそこでしか選択の余地がなかった。隣街のちょっと場末感のある複合施設の4階にあり、ボーリング場やゲーセンと映画館が詰め込まれている。4階の立体駐車場まで登れば直接アクセスできるようだが、全高の関係でグラウンドの小分類された平面駐車場となった。ゲートと狭苦しい正面駐車エリアは、映画が終わる深夜には退出できなくなりそうなオーラを醸し出している。でもとにかく時間がない。

 

あと10分。予告編と映画泥棒を入れても20分あるかないか。

 

渋谷の東急ハンズのようなちょっとトリッキーな施設の造りで、案内に従い閉店間際の食品売り場を通り抜けて、閉店したテナント街の壁沿いを歩き指示のあるエレベーターへ向う。乗り場ではツッパリ少年がたむろしており、もしや一緒に乗り込んできて狩られるのかと不安がよぎったが、そういう目はしていなかったので無事に独りでエレベーターに乗った。

 

4階でエレベータのドアが開くとそこは立駐の中のガラスの島で、そこから駐車場を横断すると遊興施設エリアだった。実は十数年前のそこの施設のオープン当初にも来た事があり、そのトリッキーな立地に現実だったのか夢だったのかちょっと自信がなかったが、中に入ると見覚えのある景色が蘇ってきた。

 

あたりをと見渡すとチケット売り場の明かりは消され、ほんのり明るいフードコートの僅かな人影はこちらに背中を向けておりあまり歓迎してくれなさそうである。ゲームオーバーかとがっかりしかけたが、中央のもぎりゲートで女性スタッフがひとりでチケット販売をしていた。

 

「あと9分で予告編がスタートするのでまだ余裕はあります。大丈夫です。お席をお選び下さい」

 

席予約用の画面は5席しかチェックが入っていない。おそらく2カップルと独り(仲間)だ。月曜のレイトショーで1,000円しか払わないから、完璧なランニングコスト負けで申し訳ない気分になる。おすすめの席にお願いしてコーヒーを買いやっとスタートラインに着く事ができた。

 

実はこの映画を観ることに関してはかなり迷っていた。


原作は350万部越えの大ヒット。だが個人的にはあまり評価は高くなかった。第二次大戦時末期の神風特攻に運命を翻弄された人々を題材にしたストーリーなのであるが、冗長で数々の空戦記や史実をかなりのボリュームで引用しリライトをしている。史実に基づいたフィクションだから揶揄する筋合いもないが、かといって吉川栄治や浅田次郎とは違う、なにかすっきりしない気持ちが残った。ただエンターテイメントとして幅広い読者層に受け容れられるストーリー作りの巧みさには感心したし、これだけ売れたというのはそういうことであろう。

 

メディア上では作者の百田尚樹氏と、冒険と空の夢や平和の世界的表現者原理主義者に近い宮崎駿氏が、思想の違いでなんだかケツの穴の小さい大ゲンカをしている。ソ連との国境線で憤怒と恐怖の日々を送った抑留帰りの死んだ爺ちゃんがその場にいたら、きっと二人ともぶん殴っていただろう。

 

そんな印象の原作をどう映画化するのか。情報公開やインターネットの普及で、特攻のみならず大戦時の実写(つまり真実の姿)を現在では容易に見る事が出来る。自分は多感な少年時代に近代史や飛行機のダイナミックなヒストリーに心打たれ、かなり数の書籍に目を通し、特攻に関しても一般の人よりはかなり精通していたと思う。でも実写映像は殆んどみる事はできなかった。

 

実写の数々の特攻の映像は鬼気迫るものがあり実に胸が詰まる。半狂乱で迎撃するアメリカの艦船めがけてあらゆる方向から、神風が決死のダイブをしていく。特攻を喰らった艦船は地獄の釜をひっくり返したかのように阿鼻叫喚の修羅場となる。または目的果たせず次々にバラバラになり火だるまになり海面に叩きつけられる。海面すれすれを突っ込んでくる複座艦上攻撃機。特攻専用機「桜花」を腹に抱いたまま次々と火だるまになる双発攻撃機

 

そう「桜花」は1トン爆弾に推進用ロケットと翼と操縦席をつけた特攻専用機で米軍は「BAKA BOMB」と命名した。数年前に靖国神社遊就館でレプリカではあるが初めて実機をみた。人間魚雷「回天」もそうであるがそのあまりの「死の覚悟」のような佇まいには息をのむ。

 

ある映像では美しい青い海の波間を撃ち落された日本のパイロットが漂ってくる。覚悟を決めた顔だ。一説ではパイロットが海中で手榴弾のピンを抜いたためとはいわれているが、アメリカの小型艦船の間近で無残にも撃ち殺されてしまう。そして青い海の彼方へまた流されていく。

 

そう、その血みどろの戦いは南の美しい海と青い空をバックにいつも繰り広げらててた。その美しい背景と死との対比があまりにも切ない。

 

 

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この実画像では攻撃を受けたのかエンジンに致命的な問題がおき絶体絶命の艦上攻撃機。パイロットは視界が利かないため、後部座席から身を乗り出して状況を確認しているのであろうか。美しい紺碧の海の上では絶望的な選択を迫られている。

 

米軍のP51Dムスタングから日本の里山の深い緑の中を縫うように必死に逃げる宮部のゼロ。山々すれすれに、まるで相手がどこを撃ってくるか読んでいるかのように、機体を横滑りロールさせ弾をそらす宮部。深い緑に鮮やかなオレンジ色の曳光弾が映える。なぜ反転して反撃しないのかと疑問を持った人もいるかもしれないが、ムスタングに対して機体の性能的に絶対的に劣るゼロは、凄腕の宮部をもってしても、上に逃げるもしくは反転する事は死を意味する。

 

映画「永遠の0」では美しい青い海そして青い空、そして日本の美しい原風景を舞台に血みどろの戦いが描かれていた。その生と死のような対比を意図的に描きだしていたのではないだろうか。実機レプリカやCGを駆使したVFX映像はもちろん足りない所も多々あるわけだけど、見せるための仕掛けが盛りだくさんで手間を惜しまない、何というか実に誠意を持って描かれている印象で好感が持てた。若い俳優さん達の演技もなにかそういう誠意のようなものを感じた。

 

究極の愛の物語ということだけど、つまるところは「生きる」ということを痛切に感じさせてくれる映画だった。


原作から根となり幹となる要素のみを丁寧に抽出し、枝葉の部分は観る側の想像力にある程度委ねる。なので劇中に隠喩や伏線も散りばめられていて、かといってそれに気がつかなくても十分に楽しめる。そんな作り手の誠意のようなものを感じた。またそうした戦争を題材にし、ましてや特攻となると思想的バッシングは不可避だけど、それをも想定しているような脚本だった。つまり真珠湾攻撃とそのエピソードは割りと丹念に描き日本人に罪悪感を持たせるような描き方。早々と飛車角を落とし王手を喰らったようなミッドウェイ海戦の失敗は旧軍の体制批評。そして特攻に関しては失敗しか描かれていなかった。つまり行為を肯定するような描き方は極力避けられていたような印象を持った。

 

主人公の宮部の特攻はレーダーと迎撃を避けるため海面スレスレを標的に迫り、直前に急上昇して真上からダイブするところで映画は始まりそして終わった。これは成功例が高く効果的な手段で数少ない熟練パイロットでないとできない。マリアナ七面鳥撃ちと呼ばれた特攻後期はバタバタと落とされた。機体もまともじゃないのに加えて未熟な若い操縦者ではたどり着くことさえままならない。

 

海軍一のチキンと陰口を叩かれあれほど生き残ることにこだわった宮部。家族のためでもあるし戦争で死ぬのは真っ平ゴメンだったのだろう。

ところが戦局が進むに連れ現われてきた残酷な真実の姿が宮部を苦しめた。宮部は若いパイロットを養成しどんどん特攻に送り出さなくてはならなくなった。しかも生きる意味も理解していないような幼い若者達を全く足りない時間で育て上げ、ぶっつけ本番で地獄へ送り込まなければならない。あれほど生きるという事に執着した宮部が、成功は死を意味し失敗もまた死を意味するような任務に送り出す若者を育てなくてはならない。

 

「生きる」ということは自己矛盾との戦いでもあり生きるために信念に背く事も必要になることがある。

 

宮部は家族のために生き残りたいのに、やもすると死に行くための訓練をするような「生きる」とは真逆のことを毎日している。体制も糞である。その自己矛盾との葛藤に苦しむ宮部を主演の岡田准一は真実の瞬間に迫るかのような演技をしていた。

 

話はもどりまだ戦局の浅い頃、一時の帰宅をした宮部は、妻よりも初めて会う第一子の清子に気持ちを優先していた。そういうのは母であっても女として嫉妬するもんだから、なにかの伏線なのかと思っていた。

 

そして戦後。

夫を失い、住む場所も失い食う物なく財布も空っぽである。でも何か食べ物を手に入れなければ我が子は生きてない。ここで身を汚してもも我が子のために生きなければならない。何があったのかは分らないが何かがあったのは確かだろう。

 

そんな大阪に流れ住んでいる宮部の妻のもとに、宮部が身代わりになって命拾いした若いパイロットが尋ねてきた。宮部はそうなる事がわかっていたかのようにそいつに妻のケアを頼んでいた。

 

いくつかの感情のぶつかり合いや時の流れの後、そいつは宮部の妻と一緒になる。これはほとんどの人が、そうなるであろうし、そうなって欲しいと思ったであろう。

 

でも思った。宮部の妻の心情は直喩はされていなかったけど、手の平の上にわずかな命の火を点すような厳しい日々の暮らしは人の心を蝕み変わって行く。そんな中で宮部に対する禍根のような気持ちも湧いていたのではないか。

 

「あなたは清子がいればそれでよかったんでしょ。」

「手がなくなっても、足がなくなっても、絶対に生きて帰るていったのに」

 

そんなかそいつが現われた。夫が帰ってきたのではと見まごうばかりに。反面意味が分らないし腹も立つ。もちろん簡単には受け容れられなかった。

 

「そいつがいなければ宮部は助かったのに。死ぬ思いで今まで生きてきたのにひょっこり現われて何なのよ。」

「そいつに後釜委ねるような真似って何なのよ。あなたがいないと駄目なのよ。あなたじゃないと駄目なのよ」

 

宮部の妻の心も様々な矛盾する気持ちと葛藤していたのではないか。

 

そいつは宮部の妻と一緒になり死ぬまで尽くした。

そしてそいつが妻の葬式で床に頭を擦り付けて泣き喚く現在のシーンから映画は始まった。

そしてそいつは映画の終わりに、家族に全てを話すべき時が来た事を悟り全てを話した。

話すべき時が来ていないものに話をしてもわからない。

 

正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
宮沢賢治『農民芸術概論綱要』より

 

涙は出なかったけど感情移入できたし、幅広い年齢層や特攻を知ろうと知るまいと見応えのある映画で、外国に出しても恥ずかしくないんじゃないかな。

 

エンドロールで流れるサザン・オールスターズの曲はちょっと蛇足かなと思いながら聞いていたら、曲名が娘の名前と同じでちょっとビビっときた。いいんじゃないこれで、そう思った。

 

名だたる左翼の協賛に目をぱちくりしていると、豊川市教育委員会の名前も出てきた。東洋随一と称された豊川海軍工廠には旧軍施設がそのまんま残っていてそこが管理している。何か関連があったのか。そしてこの映画館の入った複合施設は豊川海軍工廠跡地のすぐ際で、海軍工廠大空襲の被害者が眠っているといわれる口承伝説のある桜並木沿いにある。

 

そんな偶然に心馳せながら昇って来たエレベータ乗り場に向うと警備員が飛んできた。

「お客さん!そっからは戻れないよ!映画館に戻って通り抜けて突き当たり左のエレベーターで戻ってもらえる?」

またしも東急ハンズ渋谷店のような仕打ちをうけ、駐車場にもどるとシルバーのキャラバンが1台ポツンと主の帰りを待っていた。

あん時の寿司屋みたいなアウェイ感だったけど、印象に残る1日だった。

 

映画「永遠の0」良かったですよ。最初は吹石一恵鑑賞映画になったらどうしてくれる、なんて心配してたんだから。