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Toujours beaucoup

いつまでもたくさん

『トロッコ』 芥川龍之介

芥川龍之介 少年

三人は又トロッコへ乗った。車は海を右にしながら、雑木の枝の下を走って行った。しかし良平はさっきのように、面白い気もちにはなれなかった。「もう帰ってくれればい」――彼はそうも念じて見た。が、行く所まで行きつかなければ、トロッコも彼等も帰れない事は、勿論もちろん彼にもわかり切っていた。

 

無限の袋小路のような毎日の繰り返し。時々そんな良平のような気分になる。

「この先行き止まり。無用のもの入るべからず。」

警告を無視したものには報いがある。

 

去年、岐阜ハーフマラソン長良川沿いを走りながら何回も見上げると、いつも金華山の上の岐阜城がみえた。

何だか見守られているような不思議な気分になった。
 


40年の不在 - Toujours beaucoup

 
その金華山より高い百々ヶ峰という山の登り口で途絶える、岐阜市内のはずれの街の、長屋の借家に住んでいた。上がった小学校からは、百々ヶ峰が象徴のように見えた。
 

そう、物心ついた頃は岐阜に住んでいた。


出発点 - Toujours beaucoup


長屋の借家に住んでいて、幼稚園の記憶から始まる。
最初はお寺が経営している人種の坩堝のような幼稚園。
講堂みたいなとこに集まって、画家先生のもと、お絵描き講習をしたことがあった。先生の言う通りに描いていって周りを見たら、自分だけ全く違う絵を描いていた。ものすごい疎外感を感じた。
だれかが園内(境内)で立ちションしているのを真似たら、見つかって自分だけ怒られた。だれかはもういなかった。理不尽を感じた。
幼稚園には近所の子らとタクシー乗り合いで通っていた。ある朝僕らの乗ったタクシーが痛快に事故った。
「馬鹿野郎クソたわけ!」
運転手が吐いた言葉の下衆さにしばらく、はまった。代わりのタクシーが来て乗り換える時に、僕の缶カン(上に乗って、つけた紐を持ってポッコンポッコン歩くあれ)が事故の衝撃で潰れていたのを、馬鹿野郎クソたわけ運転手が、あ…って顔して直してくれた。そんなことを覚えている。
そんな事件やら、やはり当時は雲助なんて揶揄されたのも、あながち的外れではなく、問題も色々と多くタクシー通園は中止された。
 
その後、市営のちょっと生意気な制服のある幼稚園に変わった。
春の遠足でひとりだけはぐれたことがある。でも畦道のタンポボやレンゲに心を奪われていて、はぐれたことにすら気がついていなかった。


春の彷徨 - Toujours beaucoup

 
ある日教室でみんながいるのに、ひとり遊びをしていたんだと思う。履いている上履きを蹴り飛ばしたら、窓の外へ吸い込まれた。PKがゴールキーパーの呪術の手中に吸い込まれるように。 
上履きが消えた窓の外の曇り空を見たら、駈け出さずにはいられなくなった。
黙って教室を抜け、中庭を駆け抜け門の外に出た。
窓の外は堤防でその先は川だったように覚えている。
教室に駆け戻るときに、安堵の視界が広がった。背景が曇り空の誰もいない中庭のモノトーンの景色を覚えている。
誰も気がつかなかった。
 
田んぼや用水に潜む生き物たち。はてしない畦道の草花。麦踏み。そして百々ヶ峰の姿や の深い森。遠くの山門の仁王像。山の中で出会った土工の男たち。
 
ある晴れた春の日。仲間と果てしなく歩きだした。田んぼを抜け、小川を溯るように。どんどんと広がる新しい景色にわくわくした。
くっついてきた幼い妹が足でまといになるから、そんなに遠くまでいけない。でも冒険を中止して連れて帰りたくない。
妹をひとりで返す事にした。駄々をこねるかと思ったら素直に従った。本心は帰りたくなってきていたのだろう。
無事に帰れるのだろうか。そのあとずっとひっかっていた。帰れたとしても親にばれたら怒られる。引き返すべきか。でも冒険をやめるわけにはいかない。
無責任なもんである。
やがて山の麓に達した。そこでは彼方から続く、車が入れそうなくらい大きな土管を布設している。そんなに大きなものを作っているに、ニ三人の土工がいるだけだ。
土工は仕事を自慢した。
何のためにどこまでやって、それが物凄いことで
 
そのあとの記憶はない。
幸い妹は無事だ。
 

芥川龍之介 トロッコ

 

そのあと十日余りたってから、良平は又たった一人、昼過ぎの工事場に佇みながら、トロッコの来るのを眺めていた。すると土を積んだトロッコのほかに、枕木まくらぎを積んだトロッコが一りょう、これは本線になるはずの、太い線路を登って来た。このトロッコを押しているのは、二人とも若い男だった。良平は彼等を見た時から、何だか親しみやすいような気がした。「この人たちならばしかられない」――彼はそう思いながら、トロッコのそばけて行った。
「おじさん。押してやろうか?」
 その中の一人、――しまのシャツを着ている男は、俯向うつむきにトロッコを押したまま、思った通り快い返事をした。
「おお、押してくよう
 良平は二人の間にはいると、力一杯押し始めた。
われ中中なかなか力があるな」
 の一人、――耳に巻煙草まきたばこはさんだ男も、こう良平をめてくれた。
 その内に線路の勾配は、だんだん楽になり始めた。「もう押さなくともい」――良平は今にも云われるかと内心気がかりでならなかった。が、若い二人の土工は、前よりも腰を起したぎり、黙黙と車を押し続けていた。良平はとうとうこらえ切れずに、ずこんな事を尋ねて見た。
何時いつまでも押していてい?」
「好いとも」
 二人は同時に返事をした。良平は「優しい人たちだ」と思った。
 五六町余り押し続けたら、線路はもう一度急勾配になった。其処には両側の蜜柑畑みかんばたけに、黄色い実がいくつも日を受けている。
「登りみちの方が好い、何時いつまでも押させてくれるから」――良平はそんな事を考えながら、全身でトロッコを押すようにした。
 蜜柑畑の間を登りつめると、急に線路はくだりになった。縞のシャツを着ている男は、良平に「やい、乗れ」と云った。良平はすぐに飛び乗った。トロッコは三人が乗り移ると同時に、蜜柑畑の※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)においあおりながら、ひたすべりに線路を走り出した。「押すよりも乗る方がずっと好い」――良平は羽織に風をはらませながら、当り前の事を考えた。「行きに押す所が多ければ、帰りに又乗る所が多い」――そうもまた考えたりした。
 竹藪たけやぶのある所へ来ると、トロッコは静かに走るのをめた。三人は又前のように、重いトロッコを押し始めた。竹藪は何時か雑木林になった。爪先つまさき上りの所所ところどころには、赤錆あかさびの線路も見えない程、落葉のたまっている場所もあった。その路をやっと登り切ったら、今度は高いがけの向うに、広広と薄ら寒い海が開けた。と同時に良平の頭には、余り遠く来過ぎた事が、急にはっきりと感じられた。
 三人は又トロッコへ乗った。車は海を右にしながら、雑木の枝の下を走って行った。しかし良平はさっきのように、面白い気もちにはなれなかった。「もう帰ってくれればい」――彼はそうも念じて見た。が、行く所まで行きつかなければ、トロッコも彼等も帰れない事は、勿論もちろん彼にもわかり切っていた。
 その次に車の止まったのは、切崩きりくずした山を背負っている、藁屋根の茶店の前だった。二人の土工はその店へはいると、乳呑児ちのみごをおぶったかみさんを相手に、悠悠ゆうゆうと茶などを飲み始めた。良平はひとりいらいらしながら、トロッコのまわりをまわって見た。トロッコには頑丈がんじょうな車台の板に、ねかえった泥がかわいていた。
 少時しばらくのち茶店を出て来しなに、巻煙草を耳にはさんだ男は、(その時はもう挟んでいなかったが)トロッコの側にいる良平に新聞紙に包んだ駄菓子をくれた。良平は冷淡に「難有ありがとう」と云った。が、すぐに冷淡にしては、相手にすまないと思い直した。彼はその冷淡さを取り繕うように、包み菓子の一つを口へ入れた。菓子には新聞紙にあったらしい、石油の※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)がしみついていた。
 三人はトロッコを押しながらゆるい傾斜を登って行った。良平は車に手をかけていても、心はほかの事を考えていた。
 その坂を向うへり切ると、又同じような茶店があった。土工たちがその中へはいったあと、良平はトロッコに腰をかけながら、帰る事ばかり気にしていた。茶店の前には花のさいた梅に、西日の光が消えかかっている。「もう日が暮れる」――彼はそう考えると、ぼんやり腰かけてもいられなかった。トロッコの車輪をって見たり、一人では動かないのを承知しながらうんうんそれを押して見たり、――そんな事に気もちを紛らせていた。
 ところが土工たちは出て来ると、車の上の枕木まくらぎに手をかけながら、無造作むぞうさに彼にこう云った。
われはもう帰んな。おれたちは今日は向う泊りだから」
「あんまり帰りが遅くなるとわれうちでも心配するずら
 良平は一瞬間呆気あっけにとられた。もうかれこれ暗くなる事、去年の暮母と岩村まで来たが、今日のみちはその三四倍ある事、それを今からたった一人、歩いて帰らなければならない事、――そう云う事が一時にわかったのである。良平はほとんど泣きそうになった。が、泣いても仕方がないと思った。泣いている場合ではないとも思った。彼は若い二人の土工に、取って附けたような御時宜おじぎをすると、どんどん線路伝いに走り出した。
 良平は少時しばらく無我夢中に線路の側を走り続けた。その内にふところの菓子包みが、邪魔になる事に気がついたから、それを路側みちばたり出す次手ついでに、板草履いたぞうりも其処へ脱ぎ捨ててしまった。すると薄い足袋たびの裏へじかに小石が食いこんだが、足だけははるかに軽くなった。彼は左に海を感じながら、急な坂路さかみちけ登った。時時涙がこみ上げて来ると、自然に顔がゆがんで来る。――それは無理に我慢しても、鼻だけは絶えずくうくう鳴った。
 竹藪の側を駈け抜けると、夕焼けのした日金山ひがねやまの空も、もう火照ほてりが消えかかっていた。良平は、いよいよ気が気でなかった。きとかえりと変るせいか、景色の違うのも不安だった。すると今度は着物までも、汗のれ通ったのが気になったから、やはり必死に駈け続けたなり、羽織を路側みちばたへ脱いで捨てた。
 蜜柑畑へ来る頃には、あたりは暗くなる一方だった。「命さえ助かれば――」良平はそう思いながら、すべってもつまずいても走って行った。
 やっと遠い夕闇ゆうやみの中に、村外れの工事場が見えた時、良平は一思いに泣きたくなった。しかしその時もべそはかいたが、とうとう泣かずに駈け続けた。
 彼の村へはいって見ると、もう両側の家家には、電燈の光がさし合っていた。良平はその電燈の光に、頭から汗の湯気ゆげの立つのが、彼自身にもはっきりわかった。井戸端に水をんでいる女衆おんなしゅうや、畑から帰って来る男衆おとこしゅうは、良平があえぎ喘ぎ走るのを見ては、「おいどうしたね?」などと声をかけた。が、彼は無言のまま、雑貨屋だの床屋だの、明るい家の前を走り過ぎた。
 彼のうち門口かどぐちへ駈けこんだ時、良平はとうとう大声に、わっと泣き出さずにはいられなかった。その泣き声は彼の周囲まわりへ、一時に父や母を集まらせた。ことに母は何とか云いながら、良平の体をかかえるようにした。が、良平は手足をもがきながら、すすり上げ啜り上げ泣き続けた。その声が余り激しかったせいか、近所の女衆も三四人、薄暗い門口へ集って来た。父母は勿論その人たちは、口口に彼の泣くわけを尋ねた。しかし彼は何と云われても泣き立てるより外に仕方がなかった。あの遠い路を駈け通して来た、今までの心細さをふり返ると、いくら大声に泣き続けても、足りない気もちに迫られながら、…………
 良平は二十六の年、妻子さいしと一しょに東京へ出て来た。今では或雑誌社の二階に、校正の朱筆しゅふでを握っている。が、彼はどうかすると、全然何の理由もないのに、その時の彼を思い出す事がある。全然何の理由もないのに?――塵労じんろうに疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している。…………

 

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