Toujours beaucoup

いつまでもたくさん

羽根が生えてきたころ


 高校進学
 
 だいぶメッキは剥がれ地金は見えてきたものの、それほど成績は悪くなかったから、市内でNO2ランクの進学校である高校に進学した。後に東京の大学に進学して、地方の2流は首都圏では4流程度だと思い知る事になる。
 
 高校生活はとにかく楽しいの一言につきた。同程度の学力ということは同程度の家庭環境とリンクするようで、いたって自由な校風もあり平穏無事なコミュニティーが形成されていた。それは整備されたグランドでスポーツをするようなもので、裸足で走っても怪我をしない。卒業するまでの3年間は休暇と冒険の繰り返しのような日々だった。
 
 放課の時間はほとんどが部活動のために割かれたために、それがもとで知らぬ間に男女各一人づつの何かの委員に決められた。放課の時間にその委員を決めなければならなかったのだが、男子は不在の僕にやらせて、女子は男子に疎まれていたその子にしてしまえという、欠席裁判的に不当で、意地悪な罰のような皆の意志だった。
 その決定を覆す事は出来なかったが、反骨心で部活を理由として委員としての活動をほとんどボイコットした。おかげで割を食ったのは女子の代表で、わざわざ僕に電話をかけてきて「あなたって本当に無責任ね」となじられた事があった。その通りだが仕方がないんだとは言えず、謝るしかなかった。それならそれできちんと仕事はこなすべきだったのだ。当たり前の話だが。

 この頃になると少しはまわりを見渡す事ができるようになり、憧れのエースパイロットは無理というより、不適合なことが分かってきた。航空学生のパンフレットや予備校の資料を取り寄せるまでがせいぜいだった。パイロットの夢があまりに現実的でなくなった頃に、オーバーラップしていたバイクへの興味が一気に爆発することになる。
 管理教育と臭いものには蓋主義は、バイクの3ない運動、進化した4ない運動に発展する。たしかにあまりにも多くの若者が命を落としていた。バイクが悪の象徴たるピークを向かえた時代だ。マイケル・ムーアなら何と言っただろう?

 

ボウリング、フォー、コロンバイン。   
 1999年4月20日、アメリカ合衆国は普段通りの穏やかな朝を迎えた。人々は仕事に励み、大統領は国民が名前さえ知らない国に爆弾を落とし、コロラド州の小さな町では2人の少年が朝6時からボウリングに興じている。何の変哲もない予定調和な1日のはじまり…。このあと、2人のボウリング少年が悲劇的事件を起こそうとは、いったい誰が予想しただろう。
 その日、アメリカは旧ユーゴスラビアコソボ紛争における最大規模の爆撃を敢行した。その1時間後、あのコロンバイン高校銃乱射事件、別名トレンチコートマフィア事件が起きたのだ。事件の舞台はコロラド州リトルトンのコロンバイン高校。そこの生徒である2人の少年が、高校に乗り込み銃を乱射。12人の生徒と1人の教師を殺害したのち、自殺するという衝撃的なものだった。
 この事件は全米を震撼させた。あらゆるメディアが事件の分析を試み、ヒステリックに騒ぎ立てた。映画やTV、ビデオゲームにおけるバイオレンスの氾濫が悪いのだ、家庭の崩壊の産物だ、高い失業率が原因だ、いやアメリカが建国以来たどってきた暴力的歴史のせいなのだ、と。報道はどんどん過熱、犯人が聴いていたという理由からハード・ロック歌手マリリン・マンソンのライブがコロラド州で禁止されるという一幕もあった。
 しかし、ビデオゲームは日本の方がよほど進んでいる、家庭の崩壊はイギリスのほうがひどい、失業率はカナダのほうがはるかに高い。なのになぜアメリカだけ銃犯罪が突出しているのだ?なぜ、アメリカだけが銃社会の悪夢から覚めることができないのか?マイケル・ムーアは、その大きな体をゆすりながら、問題の核心に迫るためマイク片手にアポなし突撃取材を敢行していく。彼は問う。「マリリン・マンソンのライブを禁止するのなら、なぜボウリングも禁止しないのか?」

 茨城県結城郡千代川村 筑波サーキット

 一周2キロの箱庭のようなサーキットに、東日本中の火病に冒された若者たちが集まった。
土曜の朝から日曜の昼まで延々と予選を行っている。クラスにもよるが10倍から16倍の倍率の予選通過率。日曜の昼から行われる決勝レースでは、その16倍の予選を通過しても、1位から32位までの同情の付け入る余地のない序列がつけられるだけだ。

 そこは泥舟に乗って大海原を渡ろうと夢みる人間が集まってくる場所で、一生分に近い数のダメ人間を見たような気分になった。

 しかるべき場所にしかるべき人間が集る。そして全てを投げ打つような覚醒状態の世界に触れ、その世界との距離感に悩みつつも、最終的には逆にそれを提供する立場が生業になってしまった。通常では体験できないような、実に様々な忘れる事の出来ない刺激的な出来事があったが、あまりに核心に迫りすぎたために、それらを人に伝えるにあたって、反って表現に苦しんでしまう。どこから話し始めるかというところから。
 
 しかしこれらはまったく別の話で、幼少時代と南の島で過ごした頃とは関係は無い。それは全く別の話であり、万事うまくいけばまたいつか改めて話す機会があるかもしれない。

30年後の筑波サーキットpooteen.hateblo.jp